ピーターソンひろみさんへのインタビュー
16年12月19日
■FMちゅーピー(広島市中区)制作部 堀部正拓
※12月20日(火)と27日(火)午後5時から、FMちゅーピーの番組「ピースロード」(30分間)で放送します。
―本日は、オバマ米大統領の出身校として知られる米国ハワイのプナホウ学園で、日本語教師をしていたピーターソンひろみさんにお話を伺います。ピーターソンさんは広島市南区のご出身で、1972年に夫のウェスさんとの結婚を機にハワイへ移住し、1984年から2014年までこのプナホウ学園に教師として勤務。その間、原爆被害を扱った中高生用の日本語教科書を出版しました。その功績が評価され、今年11月、谷本清平和賞を受賞されました。
教科書はほとんど30年掛かりで1から5巻まで書き上げました。1巻は日常生活、2巻はコミュニティーに出て日本語が必要な場所での言語と文化、3巻がホームステイで必要な言語と文化でした。そして4巻で取り上げたのが、もっと日本のことを知りたくなった生徒が日米の接点について学ぶという内容。生徒たちに自分のバックグラウンドまで語れるようなレベルの日本語を身に付けてもらうため。ハワイの生徒は、さまざまな所から来ていて、バックグラウンドを語るとどうしても戦争に行き着きます。そのサンプルとして、共著の日系3世のナオミ・大溝先生とともに、自分たちの家族について取り上げました。大溝先生のおじいさんは静岡県からの移民で、真珠湾攻撃の日に即逮捕されて収容所に送られ、4年間米本土の収容所を転々とさせられました。私の家族は広島で被爆していました。ほかの人の話を書くと著作権などがややこしくなるので、事実として私たちが知っている家族の歴史だけを書こうということになりました。
―先生は、その教科書の数万部の多額の印税を学園に全額寄付して、それで広島平和スカラシップが設立され、その利子が、生徒と教員が広島市への旅行に行くための資金に当てられました。ごく身近に被爆された方がいらしたことから、平和への思いを強くお持ちだと思いますが、先生を強く突き動かしたものは何だったのか、お聞かせ願えますか。
私自身、教科書に家族の話を入れることで、このようなことに発展するとは、書いている当時は思ってもいませんでした。まず中国新聞から取材を受け、記事に「被爆2世」と書かれて初めて自分が外から見ると被爆2世になるんだと意識したくらいで。広島の原爆資料館が被爆証言のビデオを作っていて、両親がインタビューを受けたのですが、そのビデオを両親から教科書用の資料としてもらって初めて、「(家族に)こんなことがあったんだ」と知ったようなような感じでした。
生徒が習った日本語を話すだけで終わっては意味がないので、歴史から何を習って、よりよい社会をつくるにはどうしたらいいか考えてほしいというのが、この教科書を使った授業の内容でした。私たちはどんな話が出てくるか知りもしないで、軽い気持ちで「自分たちのおじいさん、おばあさんに戦争のころの話を聞いてきて発表して」と生徒に求めました。実際に、生徒がインタビューしてきた内容を日本語で発表すると、毎年すごく驚くような話が出てきました。
ホノルルはいろいろな所から生徒が来ています。生徒のおじいさんが原爆製造に関わっていたとか、中国の広東省で日本軍に家族を殺されたおじいさんの話とか。またはフィリピンのおばあさんが日本軍に村を焼かれ、さとうきび畑に逃げて助かった話とか、ありとあらゆる話が授業で出てきました。
そういった話を聞いて、私自身、戦争の被害者意識しか持っていませんでしたが、「加害者としての日本」を生徒から教えられました。私の父は中国で戦争に参加していたし、遺影でしか知らないおじさんはフィリピンで戦死していました。授業で、日本によって被害を受けたおじいさん、おばあさんの話が出た時、「日本人として加害を与えたことに、すごく悲しい思いがあり、謝りたい思いがあるということを、おじいさん、おばあさんに伝えてね」と生徒に話しました。
―今年5月にオバマ大統領が米国の現職大統領として初めて広島を訪問し、平和記念公園で演説をした際にも、先生はハワイから広島に駆け付けたとのことですね。プナホウ学園出身の大統領による広島の訪問と演説を、どのように感じましたか。
広島訪問のニュースを聞いた時は「うそ!」と驚きました。オバマさんが大統領になった2009年に広島平和スカラシップを始め、それから8年、生徒と先生と一緒に広島に行き、広島を知ってくれる生徒も先生も増えました。
オバマ大統領が広島に行くと聞いた時、「自分がやってきたことが正しかった、つながった」と感じました。「こんなことをしてもいいのかな」と内心迷いながら、オバマ大統領の母校の生徒を毎年広島に連れて行きましたが、オバマ大統領が広島で演説をしたことで、合格のはんこをもらった感じがしました。
オバマ大統領の広島訪問は、すごく勇気が必要だったと思います。それでも行ったのは、ハワイで生まれ育ち、日本をすごく近くに感じていたのだと思います。プラハ演説の後、成果をなかなか出せなかったけど、自分ができることの目いっぱいの線が広島に行くことそのものだったのではないでしょうか。
―オバマ大統領は、自ら折った折り鶴を広島に持って行ったことが話題になりました。このハワイでも、3年前から真珠湾で佐々木禎子さんの折り鶴が展示されています。オバマ大統領の広島での演説を生中継した番組では、ゲスト出演した広島市立大の井上泰浩教授が「ハワイの許しの文化、アロハスピリットが背景にあり、真珠湾は恨みの場から平和を発信する融和の場へ大転換した」と解説しました。
ハワイでは昔から、金の折り鶴を家紋の形に埋め込んで結婚式で飾ったりする文化が日系人の間にあります。オバマさんがこの学園にいた時、ホームルームを担当していたエリック・クスノキ先生は日系3世でした。クラスに日系人がいる中で育ち、折り鶴も見て育っていると思います。今回、政権のスタッフが折り鶴を持って行くことを提案した時に即受け入れたという話を聞きました。その提案を受け入れることができた背景には、オバマさんがハワイで育ったことがあると思います。
オバマ大統領がハワイにいた時、被爆者に接したことがあるかどうかは分かりません。ただ、オバマ大統領がプナホウ学園で過ごした1970年代当時の環境は分かります。ジョージ・アリヨシさんが知事を務めていたころ(1974-86年)は、故ダニエル・イノウエ元上院議員など日系2世の方々がハワイの社会で中核を担っていて、人口の中でも日系人が多くを占めていました。
―日本の安倍晋三首相が今月26、27日に真珠湾を訪問すると発表しました。
素晴らしいと思いますよ。オバマ大統領が広島に行ったので、返礼としてすべきだと思っていました。75周年という節目の真珠湾の追悼式典にオバマ大統領が来ないというニュースをラジオで聞いて、「なぜ」と思っていました。この75周年を抜かす地元出身の大統領はいるべきじゃない、と。だけど、その答えがこういうことだったので理解しました。
私はいつも広島に行くたび、広島の人たちの熱い思いを感じます。被爆者として、被害者としてすごく発信をされています。真珠湾は、昔は被害者としての話を強調するビデオを見せるなど「恨みの場」としての展示でした。私も1度行って米国人の目線を感じ、「二度と行きたくない」と感じました。
その場所に禎子さんの折り鶴が受け入れられたということは、真珠湾の姿勢が変わったということですよね。全体の展示がちょうど変えられている時に折り鶴展示の話がありました。戦争がいかに始まって、いかに終わったか、展示がそういう全体的な目線で戦争を語れるのはすごいと思いました。
広島にいた時、オバマ大統領に対する被爆者の方たちから「謝罪に来たのか」というコメントもあり、強いものを感じていました。おそらく、真珠湾に日本の首相がくるのは同じように見られても仕方ないと思う。でも、それはオバマ大統領が大統領でいるうちに来ることに意味があると思います。たぶん政権が代わると、それもできなくなるのでは。日本人としては自然に「オバマさんが広島に来てくださったんだから、行かなくては」となると思いますね。
―真珠湾での折り鶴展示に尽力された、ニューヨーク在住の源和子さんの著書「奇跡はつばさに乗って」(講談社、2013年)を読みました。ニューヨークの中枢同時テロの遺族会に禎子さんのお兄さんが出席されたことがきっかけで、真珠湾にも禎子さんの折り鶴が寄贈されることになったということですね。
源和子さんは昔ニューヨークで日本語教師をやっていて、私たちの教科書を知っていて、つながりがあったんです。源さんから「ハワイのコミュニティーで折り鶴展示の資金集めをするには、どこに話をしたらいいんでしょう」と相談を受け、いろいろと提案しました。プナホウ学園でも、源さんがハワイに来た時、広島に行った生徒や先生に集まってもらい、「協力しましょう」ということになりました。
禎子さんのお兄さんとおいと会った時、「想いやりをもって小さな平和を作りましょう」と言われていたんですね。その「想いやり」という言葉をカードに書いて学校に千枚ほど印刷してもらい、上級生100人に1人10枚渡して親族や知人に配ってもらい、1年掛かりで募金を呼び掛けました。学校は、禎子さんの話を教科書に入れているので、カリキュラムにタイアップした形で許可してくれました。
原爆について勉強していない子たちの中には「なんでこんなことをするの」と言った子もいましたが、説明をしたら納得してくれました。
―真珠湾のビジターセンターでは、プナホウ学園の生徒たちが月1回、来場者に折り鶴の折り方などを教えているそうですね。
ビジターセンターに禎子さんの折り鶴が展示されたとはいえ、展示の最後の所にあるので、見逃される方も多いんです。折角折り鶴が来たのに何もしなかったら忘れられそうで。禎子さんの小さな折り鶴を見て、「何か禎子さんを応援しないと」という気持ちにさせられたんです。
この事業は、授業で義務付けているコミュニティーサービスの一つとして授業の一環としてやっています。生徒たちは休みの日に朝8時から行かないといけないので「せっかくの休みに…」と言う子もいます(笑)。全体で4時間のうちの半分は来場者に禎子さんの話をして折り鶴の折り方を教え、残り半分で展示を見たりアリゾナ記念館に行ったりします。その二つをやることが生徒の意識を変えてしまうんです。来場者も世界のいろいろな所から来るから、そこにいる意味や平和を広げる活動の大切さを理解してくれます。生徒の中には、このプロジェクトにリピーターとして関わりたいと言ってくれる子もいます。
―源さんの本によると、ハワイ州全ての小学生に佐々木禎子さんの折り鶴の本を読むことが奨励されているそうですね。
奨励がいつ始まったのか定かではありませんが、米国本土やオーストラリア、欧州の方々も結構、禎子さんの話を知っているんですよね。そのきっかけは本なんですよ。(広島、長崎に原爆を投下した時の)トルーマン大統領の孫のダニエルさんにしても、たまたま息子さんが学校から持って帰ったエレノア・コアさんの本を読んで初めてヒューマンヒストリーとしての原爆の話に触れ、心を打たれたとおっしゃっていました。本の力はすごいなと思いますね。
―ピーターソンさんは、「核兵器なき世界」のために何が必要と考えますか。
これが分かれば問題ないんですけどね…。政治家に任せていたら駄目だと、つくづく感じますね。政治が絡んでしまうと、どうしても駆け引きに使われてしまう。本当に普通の人たちが「知る」ことと、「行動する」ことが大切だと思います。無関心の人があまりに多すぎる。そういう人たちが関心を持って動く時、初めて社会が動くのだと思います。そのきっかけを折り鶴を通して伝えていけたらいいなというのが私たちの考えです。
「ピースビルダー」という言葉を、広島に行ったクリスティーナさんという子どもから聞きました。お父さんがニューヨーク出身で、お母さんが中米の出身。高校の時に1年ドイツで勉強していたそうです。「ピースビルダー(平和を築き上げる人)」という言葉を発表の中で使っていて、素晴らしいと思いました。一人一人が平和について考え、行動できる人間になった時に、普通の人でも社会を変えられるんじゃないかと。
今はコロンビア大学の3年生。国際政治を勉強していて、将来はケネディ駐日大使のような仕事をしたいと言ってました。そういう素晴らしい学生に出会えるのも広島平和スカラシップの良いところですね。
クリスティーナさんは広島平和スカラシップで広島に行く前は、広島について知らなかったんですね。それが被爆者の話などを聞いて、核兵器廃絶についてアクションプランとして署名活動を各学校でやろうと提案してきたんです。
プナホウ学園でそんなことをしてもいいのだろうかと、正直ドキドキしていましたが、あの子たちはすべきものだと思って淡々と署名を集めてニューヨークの国連に持って行きました。その次の年には広島女学院の生徒たちがプナホウにやって来て、両校でやりました。
―先生は教師として、たくさんの子どもたちの成長を見てこられたと思うのですが、未来についてどのように感じられていますか。
子どもたちが持っているポテンシャルはすごいものです。どう方向付けをしてチャンスをあげるのかは、教師にかかっています。大学入試のためだけの教育ではなく、世界をより平和な所にするためには何が必要か、そういうことを考える教育の場があってしかるべきだと思います。そのチャンスがない子どもたちが大人になった時、政治に無関心だったり、何が起きても「自分に関係ない」となってしまったりする。そういう教育をしてはいけないと私は思います。
今の子どもたちを見ていて、特に小さい時に平和の種をまくことが、その子の一生の方向性を変えると思う。例えば折り鶴を一つ折ってピースメッセージを書くという行動を通して、真珠湾や世界につながっていく。そのことが、その子の将来にも影響していくんじゃないかと希望を持っています。
高知県の坂本龍馬記念館が始めた終戦の日の子ども向けイベントに私が行って真珠湾での話をしたら、小学校5年生の男の子が、フランスのテロのニュースを見て、「すごく悲しい。僕に何かできることがあるやろか」とお母さんに相談し、「ピーターソン先生に折り鶴を送って世界の人に平和を訴えよう」という話になったそうです。それが校長の許可を得て全校に広がり、1400羽の折り鶴を私に送って来ました。それを真珠湾に持って行った時、たまたま来ていた上智大学の先生がビジターセンターにプロジェクトとして提案され、今は世界中のどこからでも送ってもらうことができるようになりました。真珠湾の場所そのものが平和を考える環境になったんです。日本の子どもたちにもぜひこのプロジェクトに参加してもらい、平和のメッセージを折り鶴に書いて真珠湾に送ってほしいですね。それを私たちが世界の人に配りますから。折り鶴ですから、どこへでも飛んで行くんですよね(笑)。
※12月20日(火)と27日(火)午後5時から、FMちゅーピーの番組「ピースロード」(30分間)で放送します。
―本日は、オバマ米大統領の出身校として知られる米国ハワイのプナホウ学園で、日本語教師をしていたピーターソンひろみさんにお話を伺います。ピーターソンさんは広島市南区のご出身で、1972年に夫のウェスさんとの結婚を機にハワイへ移住し、1984年から2014年までこのプナホウ学園に教師として勤務。その間、原爆被害を扱った中高生用の日本語教科書を出版しました。その功績が評価され、今年11月、谷本清平和賞を受賞されました。
教科書はほとんど30年掛かりで1から5巻まで書き上げました。1巻は日常生活、2巻はコミュニティーに出て日本語が必要な場所での言語と文化、3巻がホームステイで必要な言語と文化でした。そして4巻で取り上げたのが、もっと日本のことを知りたくなった生徒が日米の接点について学ぶという内容。生徒たちに自分のバックグラウンドまで語れるようなレベルの日本語を身に付けてもらうため。ハワイの生徒は、さまざまな所から来ていて、バックグラウンドを語るとどうしても戦争に行き着きます。そのサンプルとして、共著の日系3世のナオミ・大溝先生とともに、自分たちの家族について取り上げました。大溝先生のおじいさんは静岡県からの移民で、真珠湾攻撃の日に即逮捕されて収容所に送られ、4年間米本土の収容所を転々とさせられました。私の家族は広島で被爆していました。ほかの人の話を書くと著作権などがややこしくなるので、事実として私たちが知っている家族の歴史だけを書こうということになりました。
―先生は、その教科書の数万部の多額の印税を学園に全額寄付して、それで広島平和スカラシップが設立され、その利子が、生徒と教員が広島市への旅行に行くための資金に当てられました。ごく身近に被爆された方がいらしたことから、平和への思いを強くお持ちだと思いますが、先生を強く突き動かしたものは何だったのか、お聞かせ願えますか。
私自身、教科書に家族の話を入れることで、このようなことに発展するとは、書いている当時は思ってもいませんでした。まず中国新聞から取材を受け、記事に「被爆2世」と書かれて初めて自分が外から見ると被爆2世になるんだと意識したくらいで。広島の原爆資料館が被爆証言のビデオを作っていて、両親がインタビューを受けたのですが、そのビデオを両親から教科書用の資料としてもらって初めて、「(家族に)こんなことがあったんだ」と知ったようなような感じでした。
生徒が習った日本語を話すだけで終わっては意味がないので、歴史から何を習って、よりよい社会をつくるにはどうしたらいいか考えてほしいというのが、この教科書を使った授業の内容でした。私たちはどんな話が出てくるか知りもしないで、軽い気持ちで「自分たちのおじいさん、おばあさんに戦争のころの話を聞いてきて発表して」と生徒に求めました。実際に、生徒がインタビューしてきた内容を日本語で発表すると、毎年すごく驚くような話が出てきました。
ホノルルはいろいろな所から生徒が来ています。生徒のおじいさんが原爆製造に関わっていたとか、中国の広東省で日本軍に家族を殺されたおじいさんの話とか。またはフィリピンのおばあさんが日本軍に村を焼かれ、さとうきび畑に逃げて助かった話とか、ありとあらゆる話が授業で出てきました。
そういった話を聞いて、私自身、戦争の被害者意識しか持っていませんでしたが、「加害者としての日本」を生徒から教えられました。私の父は中国で戦争に参加していたし、遺影でしか知らないおじさんはフィリピンで戦死していました。授業で、日本によって被害を受けたおじいさん、おばあさんの話が出た時、「日本人として加害を与えたことに、すごく悲しい思いがあり、謝りたい思いがあるということを、おじいさん、おばあさんに伝えてね」と生徒に話しました。
―今年5月にオバマ大統領が米国の現職大統領として初めて広島を訪問し、平和記念公園で演説をした際にも、先生はハワイから広島に駆け付けたとのことですね。プナホウ学園出身の大統領による広島の訪問と演説を、どのように感じましたか。
広島訪問のニュースを聞いた時は「うそ!」と驚きました。オバマさんが大統領になった2009年に広島平和スカラシップを始め、それから8年、生徒と先生と一緒に広島に行き、広島を知ってくれる生徒も先生も増えました。
オバマ大統領が広島に行くと聞いた時、「自分がやってきたことが正しかった、つながった」と感じました。「こんなことをしてもいいのかな」と内心迷いながら、オバマ大統領の母校の生徒を毎年広島に連れて行きましたが、オバマ大統領が広島で演説をしたことで、合格のはんこをもらった感じがしました。
オバマ大統領の広島訪問は、すごく勇気が必要だったと思います。それでも行ったのは、ハワイで生まれ育ち、日本をすごく近くに感じていたのだと思います。プラハ演説の後、成果をなかなか出せなかったけど、自分ができることの目いっぱいの線が広島に行くことそのものだったのではないでしょうか。
―オバマ大統領は、自ら折った折り鶴を広島に持って行ったことが話題になりました。このハワイでも、3年前から真珠湾で佐々木禎子さんの折り鶴が展示されています。オバマ大統領の広島での演説を生中継した番組では、ゲスト出演した広島市立大の井上泰浩教授が「ハワイの許しの文化、アロハスピリットが背景にあり、真珠湾は恨みの場から平和を発信する融和の場へ大転換した」と解説しました。
ハワイでは昔から、金の折り鶴を家紋の形に埋め込んで結婚式で飾ったりする文化が日系人の間にあります。オバマさんがこの学園にいた時、ホームルームを担当していたエリック・クスノキ先生は日系3世でした。クラスに日系人がいる中で育ち、折り鶴も見て育っていると思います。今回、政権のスタッフが折り鶴を持って行くことを提案した時に即受け入れたという話を聞きました。その提案を受け入れることができた背景には、オバマさんがハワイで育ったことがあると思います。
オバマ大統領がハワイにいた時、被爆者に接したことがあるかどうかは分かりません。ただ、オバマ大統領がプナホウ学園で過ごした1970年代当時の環境は分かります。ジョージ・アリヨシさんが知事を務めていたころ(1974-86年)は、故ダニエル・イノウエ元上院議員など日系2世の方々がハワイの社会で中核を担っていて、人口の中でも日系人が多くを占めていました。
―日本の安倍晋三首相が今月26、27日に真珠湾を訪問すると発表しました。
素晴らしいと思いますよ。オバマ大統領が広島に行ったので、返礼としてすべきだと思っていました。75周年という節目の真珠湾の追悼式典にオバマ大統領が来ないというニュースをラジオで聞いて、「なぜ」と思っていました。この75周年を抜かす地元出身の大統領はいるべきじゃない、と。だけど、その答えがこういうことだったので理解しました。
私はいつも広島に行くたび、広島の人たちの熱い思いを感じます。被爆者として、被害者としてすごく発信をされています。真珠湾は、昔は被害者としての話を強調するビデオを見せるなど「恨みの場」としての展示でした。私も1度行って米国人の目線を感じ、「二度と行きたくない」と感じました。
その場所に禎子さんの折り鶴が受け入れられたということは、真珠湾の姿勢が変わったということですよね。全体の展示がちょうど変えられている時に折り鶴展示の話がありました。戦争がいかに始まって、いかに終わったか、展示がそういう全体的な目線で戦争を語れるのはすごいと思いました。
広島にいた時、オバマ大統領に対する被爆者の方たちから「謝罪に来たのか」というコメントもあり、強いものを感じていました。おそらく、真珠湾に日本の首相がくるのは同じように見られても仕方ないと思う。でも、それはオバマ大統領が大統領でいるうちに来ることに意味があると思います。たぶん政権が代わると、それもできなくなるのでは。日本人としては自然に「オバマさんが広島に来てくださったんだから、行かなくては」となると思いますね。
―真珠湾での折り鶴展示に尽力された、ニューヨーク在住の源和子さんの著書「奇跡はつばさに乗って」(講談社、2013年)を読みました。ニューヨークの中枢同時テロの遺族会に禎子さんのお兄さんが出席されたことがきっかけで、真珠湾にも禎子さんの折り鶴が寄贈されることになったということですね。
源和子さんは昔ニューヨークで日本語教師をやっていて、私たちの教科書を知っていて、つながりがあったんです。源さんから「ハワイのコミュニティーで折り鶴展示の資金集めをするには、どこに話をしたらいいんでしょう」と相談を受け、いろいろと提案しました。プナホウ学園でも、源さんがハワイに来た時、広島に行った生徒や先生に集まってもらい、「協力しましょう」ということになりました。
禎子さんのお兄さんとおいと会った時、「想いやりをもって小さな平和を作りましょう」と言われていたんですね。その「想いやり」という言葉をカードに書いて学校に千枚ほど印刷してもらい、上級生100人に1人10枚渡して親族や知人に配ってもらい、1年掛かりで募金を呼び掛けました。学校は、禎子さんの話を教科書に入れているので、カリキュラムにタイアップした形で許可してくれました。
原爆について勉強していない子たちの中には「なんでこんなことをするの」と言った子もいましたが、説明をしたら納得してくれました。
―真珠湾のビジターセンターでは、プナホウ学園の生徒たちが月1回、来場者に折り鶴の折り方などを教えているそうですね。
ビジターセンターに禎子さんの折り鶴が展示されたとはいえ、展示の最後の所にあるので、見逃される方も多いんです。折角折り鶴が来たのに何もしなかったら忘れられそうで。禎子さんの小さな折り鶴を見て、「何か禎子さんを応援しないと」という気持ちにさせられたんです。
この事業は、授業で義務付けているコミュニティーサービスの一つとして授業の一環としてやっています。生徒たちは休みの日に朝8時から行かないといけないので「せっかくの休みに…」と言う子もいます(笑)。全体で4時間のうちの半分は来場者に禎子さんの話をして折り鶴の折り方を教え、残り半分で展示を見たりアリゾナ記念館に行ったりします。その二つをやることが生徒の意識を変えてしまうんです。来場者も世界のいろいろな所から来るから、そこにいる意味や平和を広げる活動の大切さを理解してくれます。生徒の中には、このプロジェクトにリピーターとして関わりたいと言ってくれる子もいます。
―源さんの本によると、ハワイ州全ての小学生に佐々木禎子さんの折り鶴の本を読むことが奨励されているそうですね。
奨励がいつ始まったのか定かではありませんが、米国本土やオーストラリア、欧州の方々も結構、禎子さんの話を知っているんですよね。そのきっかけは本なんですよ。(広島、長崎に原爆を投下した時の)トルーマン大統領の孫のダニエルさんにしても、たまたま息子さんが学校から持って帰ったエレノア・コアさんの本を読んで初めてヒューマンヒストリーとしての原爆の話に触れ、心を打たれたとおっしゃっていました。本の力はすごいなと思いますね。
―ピーターソンさんは、「核兵器なき世界」のために何が必要と考えますか。
これが分かれば問題ないんですけどね…。政治家に任せていたら駄目だと、つくづく感じますね。政治が絡んでしまうと、どうしても駆け引きに使われてしまう。本当に普通の人たちが「知る」ことと、「行動する」ことが大切だと思います。無関心の人があまりに多すぎる。そういう人たちが関心を持って動く時、初めて社会が動くのだと思います。そのきっかけを折り鶴を通して伝えていけたらいいなというのが私たちの考えです。
「ピースビルダー」という言葉を、広島に行ったクリスティーナさんという子どもから聞きました。お父さんがニューヨーク出身で、お母さんが中米の出身。高校の時に1年ドイツで勉強していたそうです。「ピースビルダー(平和を築き上げる人)」という言葉を発表の中で使っていて、素晴らしいと思いました。一人一人が平和について考え、行動できる人間になった時に、普通の人でも社会を変えられるんじゃないかと。
今はコロンビア大学の3年生。国際政治を勉強していて、将来はケネディ駐日大使のような仕事をしたいと言ってました。そういう素晴らしい学生に出会えるのも広島平和スカラシップの良いところですね。
クリスティーナさんは広島平和スカラシップで広島に行く前は、広島について知らなかったんですね。それが被爆者の話などを聞いて、核兵器廃絶についてアクションプランとして署名活動を各学校でやろうと提案してきたんです。
プナホウ学園でそんなことをしてもいいのだろうかと、正直ドキドキしていましたが、あの子たちはすべきものだと思って淡々と署名を集めてニューヨークの国連に持って行きました。その次の年には広島女学院の生徒たちがプナホウにやって来て、両校でやりました。
―先生は教師として、たくさんの子どもたちの成長を見てこられたと思うのですが、未来についてどのように感じられていますか。
子どもたちが持っているポテンシャルはすごいものです。どう方向付けをしてチャンスをあげるのかは、教師にかかっています。大学入試のためだけの教育ではなく、世界をより平和な所にするためには何が必要か、そういうことを考える教育の場があってしかるべきだと思います。そのチャンスがない子どもたちが大人になった時、政治に無関心だったり、何が起きても「自分に関係ない」となってしまったりする。そういう教育をしてはいけないと私は思います。
今の子どもたちを見ていて、特に小さい時に平和の種をまくことが、その子の一生の方向性を変えると思う。例えば折り鶴を一つ折ってピースメッセージを書くという行動を通して、真珠湾や世界につながっていく。そのことが、その子の将来にも影響していくんじゃないかと希望を持っています。
高知県の坂本龍馬記念館が始めた終戦の日の子ども向けイベントに私が行って真珠湾での話をしたら、小学校5年生の男の子が、フランスのテロのニュースを見て、「すごく悲しい。僕に何かできることがあるやろか」とお母さんに相談し、「ピーターソン先生に折り鶴を送って世界の人に平和を訴えよう」という話になったそうです。それが校長の許可を得て全校に広がり、1400羽の折り鶴を私に送って来ました。それを真珠湾に持って行った時、たまたま来ていた上智大学の先生がビジターセンターにプロジェクトとして提案され、今は世界中のどこからでも送ってもらうことができるようになりました。真珠湾の場所そのものが平和を考える環境になったんです。日本の子どもたちにもぜひこのプロジェクトに参加してもらい、平和のメッセージを折り鶴に書いて真珠湾に送ってほしいですね。それを私たちが世界の人に配りますから。折り鶴ですから、どこへでも飛んで行くんですよね(笑)。