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連載・特集

「梟」の伝言 戦後71年 原爆と表現 <上> 被爆の記憶 胸に秘め

文化の息吹 育てた画廊

 広島市中区立町の繁華街の一角に、1966年から88年にかけ「梟(ふくろう)」という名の画廊があった。オーナーの志條みよ子は、53年に中国新聞紙上で巻き起こった「第1次原爆文学論争」の口火を切った文筆家。このほど廿日市市のギャラリーに寄贈された志條の愛蔵品や遺著を手掛かりに、原爆と表現について考える。(森田裕美)

 浜崎左髪子、灰谷正夫、福井芳郎…。広島の戦後美術史を語る上で欠かせない顔触れの優品が、包みを解かれ、姿を現す。当時若手だった現役画家たちの秀作も見える。

 廿日市市宮内にあるアートギャラリーミヤウチ。フロアを埋めるのは、絵画202点と、色紙や展覧会の案内状、書簡など関連資料一式だ。遺族から寄贈を受けた同ギャラリーが、「梟(志條みよ子)コレクション」として調査・研究を進めている。

 志條は2013年3月、90歳を前に亡くなった。コレクションは、晩年を過ごした広島市佐伯区の自宅に大切に保管されていた。

 志條が画廊を開業したのは、まだ広島市内に美術館もなかった66年。50年代初頭から営んでいた酒場「梟」が火災の類焼被害を受けたのを機に「念願である画廊」に模様替えしたと、著書に記している。

 場所は、中区立町にあった通称「なめくじ横丁」。小さな店がひしめき合う湿っぽい路地を、志條自身がこう名付け、広まったという。コレクションの中に、福井が64年になめくじ横丁を描いた油彩画もあり、往時をしのばせる。

 文学や美術の関係者と幅広い交流があった志條が営む「梟」は、酒場時代から、福井ら地元文化人のたまり場だった。著名な評論家の青山二郎や、作家の井伏鱒二、梶山季之、写真家の土門拳らも、広島に来れば寄ったという。

 画廊になってからは、後に現代美術家として知られた殿敷侃(ただし)や、入野忠芳といった当時の若手を育てた。現役画家として活躍する田谷行平、久保俊寛、藪野圭一らも展覧会を重ねた。

 「花」「貌(かお)」「町」などテーマを決めたグループ展を多く企画し、画家たちの腕を競わせた。その一人、西谷勝輝(74)=安佐南区=は「広島に生きる画家の鍛錬場のような場所だった」と振り返る。

 今月、西谷は調査が進むギャラリーを訪ねた。若き日に描いた4点があった。「これは志條さんがいいねえと褒めてくれた作品」。40年ほど前に書いた花の素描と再会し、顔をほころばせた。

 「梟」があったのは、被爆の傷痕が濃い戦後から高度経済成長期にかけての激動の時代。西谷や田谷が名を連ねる81年のグループ展「広島の街今展」の案内状に、志條はこんな文を寄せている。

 「広島よ おまえはかつて軍都だった 敗れて文化都市になったが 勝てばますます誇り高い軍都になっていたであろう(略)あれから三十数年 不覚のうちに孕み宿して来た因(もの)はないか この繁栄 この巨大 この虚飾 この宣騒 この氾濫-」

 志條は被爆者である。疎開していて直爆は免れたが、3日後の9日に入市し、直爆で大やけどを負った父親を10年後に亡くした。

 だが、自らの体験を他人に語ることはほとんどなかったという。20年間で240件を超える展覧会にも、「原爆」や「平和」を前面に出したタイトルは見当たらない。

 志條が親しい人だけに配った著書「のこりぎれ」には、例外的に「原爆忌」と題した一編がある。被爆死した父との思い出に触れ、こうつづっている。

 「忘れねばこそ、想い出さじ」

 「逃れようにも逃れられない。そのものを表現しないから忘れているということにはならない」。自らも入市被爆しているが原爆のことは描かないという西谷は、その言葉の意味を推し量る。(敬称略)

(2016年8月5日朝刊掲載)

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