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社説・コラム

『言』 ビキニから核を問う 今からでも実態調査急げ

◆被災船員救済検討チーム代表・聞間元さん

 原爆とビキニ。両方の放射線被曝(ひばく)と向き合う医師が静岡県にいる。浜松市にある生協きたはま診療所長、聞間元さん(71)。足元の原爆被爆者の検診に加えて、1954年にマーシャル諸島・ビキニ環礁沖で米水爆実験で被災した第五福竜丸の元乗組員の調査と支援を続けてきた。ことし発足した「全国ビキニ被災船員救済検討チーム」の代表に就き、他の船で被曝した元船員の「労災」申請も支える。長年の活動に込める思いと急ぐべき課題を聞いた。(論説副主幹・岩崎誠、写真も)

  ―ビキニ事件から62年。国の情報隠しを問う国家賠償訴訟も起き、本質が問われています。
 核実験が広範囲に地球を汚染し、何十年後も後遺症を残すことを知るべきです。そのためにも福竜丸以外の被害の実態も調査し記録する必要があります。原爆の被爆者は2世も含めて健康調査がされているのに、ビキニは「なかった」と同じ扱いでした。それは日本政府とともに科学者の責任ですから。今の福島にも関わる問題でしょう。

  ―「ヒバクシャ」と向き合う縁は何だったのですか。
 原点は学生時代に通った「ピカドン」という食堂。長野県松本市の大学近くにあって店内に原爆の写真があったんです。県原爆被害者の会会長を務めた前座良明さんの店で、語り合う機会もありました。ただ医師として関わるのは少し後のこと。古里の静岡県の診療所に赴任し、被爆者団体の役員から集団検診を頼まれたのがきっかけです。

  ―ビキニ事件の地元である静岡では被爆者の問題への関心が高かったのですか。
 そうでもなかったんです。被爆者手帳の保持者は千人を超えていましたが健康管理手当の申請率は低く、医師の側にしても「よく知らないから」と協力的ではない。そこで県内各地で検診活動をして診断書を書き、申請を手伝いました。県内の被爆者の4割は診たと思います。

  ―その蓄積が次の活動につながったわけですね。
 1993年に日本被団協のカザフスタンへの代表団に推薦されたことが核実験と向き合う転機となりました。旧ソ連のセミパラチンスク核実験場周辺の被害はやはりフォールアウト(放射性降下物)によるもので、がんや生活習慣病が住民に混在していて不安の声を聞きました。その体験を踏まえ、今度は足元の静岡にいる福竜丸の元船員の「その後」の調査に取り組み、95年に広島の国際シンポジウムで報告したんです。

  ―何が分かったのですか。
 7人に会えたのですが、みんな肝臓が悪いことに気付きました。福竜丸の元乗組員をずっと追跡調査していた放射線医学総合研究所(放医研)のデータを内々に見せてもらうと確かにほとんどがC型肝炎の抗体を持っていて罹患(りかん)していました。なのに一人一人に知らせていなかったんです。当時焼津に入港し、急性放射線障害の治療で輸血したことの影響でしょう。放射線被曝と輸血の障害、さらにビキニ事件の政治決着で切り捨てられて「被爆者」とは認められない社会的な苦痛。三重苦の状態に置かれてきたといえます。

  ―逆にいえば輸血という点に救済の突破口もあった、と。
 そうです。広い意味で被曝の治療過程で起こった問題が今の病気につながるからです。労災として当時の治療費が賄われた船員保険の再適用ができると考えました。元船員でこの1月に亡くなった小塚博さんが申請し、2度却下された末に2000年になって中央の審査会が決定を覆しました。限定的な救済とはいえ福竜丸の元船員では亡くなった人の遺族も含めて7人に対象が広がっています。

  ―他の被災船員の救済に道を開く手法というわけですね。
 船員保険は船乗りなら誰も入っています。高知県で被災船の実態調査に取り組む山下正寿さんに再適用の運動を提案し、おととし国が被災船の名を明示する資料を公表したことから具体化しました。まず高知ではがんなどの病気を抱える元船員と遺族10人が県に申請し、私のところには宮城や岩手などの元船員からも相談があります。

  ―ただ被曝と今の病気との関係が認められるでしょうか。
 問題はそこです。被災した事実があり、病気の事実がある。因果関係の立証には実際の被曝線量が問われます。厚生労働省の研究班報告書はほとんどないに近い、と主張しています。正確な線量推定に使えないはずの米国の資料に基づくため問題ですが、そこをどう崩すか。高知の一人の歯からは319ミリシーベルトという高い線量が確認されましたが、全体の歯のサンプルが集まっていません。地元では収集を呼び掛けています。

  ―原爆症の場合は厳密な線量推定を超えて広く救済する司法判断が続いていますね。
 ビキニも疑わしきは救済すべきでしょう。現在の放射線被曝の労災認定はハードルが高い。せめて広島でいえば原爆症認定基準である爆心地から3・5キロ程度の線量なら認めていいというのが私の主張です。米国の法体系も参考にしたい。核実験に携わった被曝軍人は従事していれば線量にかかわらず救済されているんです。実験が繰り返されたマーシャル諸島の住民も期間中に住んでいて一定の病気にかかれば補償があります。

  ―日本でも新しい法律が必要と考えますか。
 物故者を含め被災船員は数万人に上るかもしれません。原爆のように手帳を交付し、一定の病気になれば医療費を支給する法律があればいいのですが、残念ながら動きがない。ですが船員保険の履歴を手掛かりに、死亡診断書などで病歴を確認して健康影響を調査することは、今からでも国の手なら可能です。そのための立法措置を考えてもいい。これからの運動の結実にかかってくるでしょう。

ききま・はじめ
 静岡県熱海市生まれ。72年信州大医学部卒。全日本民医連に研修医として入り、山梨県で勤務した後に静岡県内の診療所に赴任。98年に浜北市(現浜松市浜北区)の生協きたはま診療所長。マーシャル諸島も2回訪問調査した。96年発足のビキニ水爆被災事件静岡県調査研究会代表で、焼津市が制定した「焼津平和賞」を12年に会として受けた。

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米水爆実験と日本

政治決着で解明を封印

 1954年の太平洋ビキニ環礁における米水爆実験の衝撃は広島・長崎の惨禍から9年後の日本にとって大きかった。23人が乗り組む静岡県焼津港所属のマグロ漁船・第五福竜丸が「死の灰」を浴び、無線長の久保山愛吉さんが死亡した事実は原水爆禁止運動のうねりを起こす。

 ただビキニ問題は戦後の高度成長の中に埋もれてしまう。原因が「政治決着」にあったのは疑いない。ビキニ被災全体への見舞金として米国は200万ドルを払い、責任を問われないままマーシャル諸島の核実験は58年まで続く。日本側も福竜丸元乗組員の継続調査以外は実態解明は封印し、資料も秘されて他の被災船については存在すら忘れられた。

 風穴をあけたのが市民の力といえよう。高知県の「太平洋核被災支援センター」事務局長として実態調査を続ける山下正寿さんが教員時代の80年代から、高校生たちとともに延べ千隻とも推定される各地の被災船の実態について掘り起こしてきた。

 メディアや研究者の手で米国側資料も発掘され、日本政府が当時、周辺海域にいた延べ556隻に関する検査結果の文書を2014年に開示したことで新たな局面を迎えた。元船員と遺族はことし2月に船員保険の適用を集団で申請した。さらに5月には日本政府が情報公開せず、それによって米国への賠償請求の機会を失ったとして高知地裁に初めての国家賠償訴訟が起こされた。

 ただ救済の難しさも浮き彫りになりつつある。5月末に厚生労働省の研究班は福竜丸以外の被災船について「外部被曝線量は最大1・12ミリシーベルト相当で、健康影響が出るほどではない」という見解を示した。その妥当性を巡って今後も議論が続くことだろう。

 オバマ米大統領の広島訪問で原爆被害が国内外の注目を集める一方、その米国による水爆実験の実態への関心は決して高いとはいえない。(岩崎誠)

(2016年8月3日朝刊掲載)

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