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社説・コラム

社説 普天間日米合意20年 無条件の閉鎖と返還を

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還について、当時の橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使が「5~7年以内」で合意しながら、履行されぬまま20年が過ぎた。国と沖縄県は今、名護市辺野古への「移設」を巡って対立しているが、市街地に危険な基地が居座っている現実は疑いようもない。

 ことは市民の生命と日々の暮らしに関わる。日米両政府は普天間を無条件で閉鎖し返還する作業を何より急ぐべきだ。

 普天間の土地は、沖縄戦のさなかに米軍が日本本土攻撃に備えて強制的に接収し、今なお使い続ける。戦時の財産奪取を禁じるハーグ陸戦条約違反の疑いも拭えない。2004年に隣接する沖縄国際大に米軍ヘリが墜落して市民を不安のどん底に陥れたことは記憶に新しい。

 にもかかわらず、日本政府は1972年に沖縄が本土復帰しても、普天間をはじめ米軍基地の整理・縮小をサボタージュし続けてきたのではないか。

 しかし、95年の少女暴行事件が県民の怒りに火を付けた。事態を放置すれば日米安保体制を揺るがしかねない、と政府は判断。5~7年以内の普天間全面返還合意にこぎ着けたものの、約束は実現していない。

 基地を巡る今日の混迷の一因は、この合意にあろう。モンデール氏は「日本国内の他の施設を使用できるという条件で返還を決めた」「(辺野古案は)日米両政府が沖縄県とも協議した上で決めたことだ」と最近のインタビューに答えている。

 関係者の証言に食い違いもあるとはいえ、普天間返還と代替施設の県内移設が当初から一体のものとして日米間で検討されていたことは否定できまい。大田昌秀、稲嶺恵一両知事も民意を背景にして条件闘争を含む交渉に臨んだが、県の頭越しに辺野古移設案が現在の「V字滑走路」計画に決まったのだ。

 その後、民主党政権の鳩山由紀夫首相が「最低でも県外移設」を公約に掲げながら、政権担当能力を欠いて挫折した。大きなチャンスを与党自らつぶしたことに、県民が大いに失望したことは言うまでもない。

 しかし、この20年は必ずしも失われた20年とばかりもいえまい。沖縄では基地に依存することに伴う経済効果は低減し、基地の跡地利用による経済効果への期待が高まった。基地の整理・縮小について、革新だけでなく保守の人たちも声を上げるようになった。これが「オール沖縄」として翁長雄志(おなが・たけし)知事を押し上げたパワーといえよう。

 岸田文雄外相とケリー米国務長官は広島市での会談で「辺野古移設が唯一の解決策」という認識で一致した。だが沖縄からすれば辺野古がなぜ唯一なのか納得できる説明はまだない。翁長知事はかねて「辺野古ができなければ本当に普天間の危険性を固定化し続けるのか」と問い掛けている。両氏はその答えを持ち合わせているだろうか。

 政府と県は辺野古移設を巡る訴訟で裁判所の和解案を受け入れ、協議を続ける。安倍晋三首相は和解について「普天間の危険除去と基地負担軽減は国も県も同じ思いで違いはない」と述べた。その通りだろう。

 ならば日米安保と沖縄の位置付けで見解が異なろうと、普天間の閉鎖と返還を急ぐ決断もできるはずではないか。

(2016年4月13日朝刊掲載)

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