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社説・コラム

『論』 写らなかった戦後 私たちが読み取る番だ

■論説主幹・佐田尾信作

 「森に風のあたる音と波の音―それは私の気象台でもあった」(宮本常一「私のふるさと」)

 明治の終わり、山口県周防大島に生まれた民俗学者は安芸灘に面した村で育つ。浜は子どもの遊び場であり大人の仕事場である。昼間よく潮が引いた時は、麦やカンコロ(芋の切り干し)などを干した。春先になると、女性たちはむしろを敷いて針仕事などをした。今思えば幻のごとき光景だろう。

 「秋の渚(なぎさ)は引き潮になると、丸い浮袋を野ぶどうのようにいっぱいつけた藻が遠浅の海面に緋(ひ)色の絨毯(じゅうたん)を敷きつめる」(福島菊次郎写真集「瀬戸内離島物語」)

 宮本より14歳年下、大正の終わりに生を受けた写真家は、周防灘沿いの下松市笠戸島を対岸に望んで育った。庭先のような海で大人は漁をし、少年は島に渡ってメジロを捕る。2人の遠い記憶にはどこか相通じるものを感じる。

 「福島さん、(写真で)食えますか」と、同県人のよしみで気遣う宮本の思い出を語ってくれたことがある。その人の訃報を先日聞いた。94歳の大往生だった。

 福島に初めて会ったのは30年ほど前にさかのぼる。徳山支局(当時)在勤中、彼のもう一つの仕事である彫金の個展会場だった。

 「こんな国には愛想が尽きた」と自給自足の生活を送るべく周防大島の無人島へ移り住んだ後で、一緒に暮らす若い女性がきびきび手伝っていた。日本の公害や兵器産業を告発し、成田空港闘争の修羅場を踏んだつわものとは思えない温顔に見えたことを覚えている。

 再会したのが10年前。「写らなかった戦後」と題したシリーズを携えていた。写真集ではなく活字が詰まった400ページの単行本である。正直言って不備な校正だったが、「写真なんて、そんな写るもんじゃない。レンズを通した光の世界なんて、知れたもんです」という語りに意表を突かれた。

 半世紀で25万枚撮ってきたが、カメラの露出時間にすれば合計1200秒、20分ほどにすぎないという。そういう意味で「写らなかった戦後」があるんだ―。取材の折は分かった気がしていた。

 福島は土門拳のリアリズム写真運動の流れをくみ、同時代では東松照明とともにフォトジャーナリズムで評価される人だ。困窮する広島の一被爆者の家庭を10年にわたって記録した「ピカドン」(1961年)が代表作である。

 そんな写真家が自らの作品をほとんど載せない本を書くのだ。真意はどこにあったのだろうか。

 シリーズのうちの「ヒロシマの嘘(うそ)」にはこのような記述がある。「(写真の)ドキュメントはほとんどスナップである。スナップとは盗み撮りのことで、それ自体がプライバシーの侵害である」

 つまり人間の本質を表現する写真はもろ刃の剣だが、ためらえば永久にシャッターチャンスを失うこともある。その二律背反に苦しむ。それが「写真なんて、そんな写るもんじゃない」という諦念につながったと今にして思う。

 福島はシリーズを死ぬまでに6冊出すと決めていた。だが「ヒロシマの嘘」「菊次郎の海」に続く3冊目の「殺すな、殺されるな」(2010年)が本人の記していた通り、遺言集になった。

 憲法改正が政治日程に上ったとき、9条と自衛隊の「同居」について主権者たる国民はどう判断するのか―。根源的な問いがそこにはある。多くの憲法学者が違憲と指摘した安全保障関連法が成立した今、破天荒な人のつぶやきだと読み飛ばすことはできまい。

 「瀬戸内離島物語」をあらためて開く。戦後の周防灘や安芸灘の島々にはカンコロを腹の足しにする幼子がいて、「遺族の家」の門札を掲げて耐え忍ぶ妻や母がいる。沈んだ戦艦陸奥(むつ)の兵隊の遺骨は拾われずにいた。やがて高度成長の波は漁村を衰退させ、水銀汚染などの公害をもたらし、原発誘致話も舞い込んでくる―。

 福島は戦後日本の過ちを問い続けた。「写らなかった戦後」といったが、残された写真には大いに手掛かりがある。今度は私たちが読み取らなければならない。(文中敬称略)

(2015年10月1日朝刊掲載)

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