×

連載・特集

欧州スタディーツアー報告会「ヒロシマとホロコースト」(詳報) 悲劇 繰り返さぬ決意

 広島国際会議場(広島市中区)で31日あったホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を学ぶ欧州スタディーツアーの報告会「ヒロシマとホロコースト」。ツアーに参加した大学生と中国新聞ジュニアライターの高校生は現地の様子を紹介、平和実現に向けて若者ができることなどを討論会で話し合った。核拡散防止条約(NPT)再検討会議を取材した別のジュニアライターの報告もあった。

≪スタディーツアー参加者≫

ジュニアライター
 高校3年 河野新大(あらた)さん(17)
 高校2年 鼻岡舞子さん(16)
大学生
 広島経済大4年 大津元貴さん(21)
 広島市立大3年 川田亜美さん(20)
 広島修道大3年 田辺美咲さん(20)
 広島大2年   土江友里子さん(19)
 県立広島大2年 時盛郁子(ふみこ)さん(19)
 広島大3年   松川純さん(20)

≪NPT再検討会議取材≫
ジュニアライター
 高校2年 二井谷栞(しおり)さん(16)
 高校1年 溝上希(のぞみ)さん(15)

アピールの全文はこちら

■討論会

司会は東海右佐衛門直柄・中国新聞社論説委員(文中敬称略)

感じたこと

偏見や差別ない世界に

 ―スタディーツアーで印象に残ったことを聞かせてください。
 河野 アウシュビッツ強制収容所から生還したポーランド人の男性(89)が腕に刻まれた番号の入れ墨を見せてくれたことです。その人は当時17歳。今の僕と同じ年齢です。そんな若さで凄惨(せいさん)な体験をした事実に衝撃を受けました。

 鼻岡 その人は「ポーランド人だから生き残れた」とも言いました。人種が違うだけで運命が違ってしまうことにあらためて驚きました。

 松川 アウシュビッツ強制収容所のすぐ近くに所長の家がありました。一歩外に出ると、所長は妻子と暮らしていました。日常的に殺人が行われていた施設とどうしてもつながりません。

 川田 私は、収容所跡の展示品の中にあった赤ちゃんの服や靴を見て涙が出ました。たまたまユダヤ人として、その時代に生まれただけで命を奪われたのです。

 時盛 事前勉強会で遺品の写真は見ていましたが、刈り取られた髪の毛の山を現地で実際に見たとき、悲しさと怖さが胸に迫ってきました。

 大津 ポーランドのオシフィエンチム市の市長は「平和を守るために武力も必要」と言いました。ヒロシマの考え方との違いを感じました。

 川田 私もその発言には違和感がありました。分割占領された歴史があるからでしょうが、戦争を起こさないためには、武器を持つ前にまず、ホロコーストの原因になった偏見や差別を私たちの心からなくすことが大事なのでは。それが対立の解消につながると思います。

 田辺 オランダのアンネ・フランクの隠れ家に入ると、足元の床がきしみました。毎日足音を忍ばせて暮らすアンネたちは本当に苦しかったろうと感じました。

 土江 アンネは世界中で知られているけど、ほかにも何百万人ものユダヤ人が殺されました。アンネと対照的に、写真一枚残っていない人もいます。恐ろしさを痛感します。

 ―アウシュビッツとヒロシマとの違いは何か感じましたか。また、広島に戻って思うことは。
 松川 アウシュビッツでは訪れる人に合わせた言語で解説してくれます。その場で質疑を重ね、考えを深めていくことができます。良い態勢だと感じました。

 時盛 平和教育を始める年齢が違います。広島は小学生低学年ごろからですが、ポーランドでホロコーストについて学ぶのは14歳から。ショックがきついからなのでしょうか。どちらがいいとか決められませんが。

 土江 広島の友人にアンネの隠れ家に行ったと伝えたら「アンネってだれ?」と言われました。ホロコーストもよく知らないと言います。中学・高校の歴史の勉強はテストのための勉強なのか―。ホロコーストや原爆を繰り返してはいけない、という視点で学ぶことが大事だと思います。

 川田 アンネの隠れ家で「人間には3種類ある」と聞かされました。アンネの父の会社の部下のように窮地の人を支援するか、見て見ぬふりをしてしまうか、迫害・差別するか―の三つです。「あなたたちは支援する人になって」と言われたのが心に残ります。見て見ぬふりをする人が大半だったから、あんな悲惨なことが起き、見過ごされてきたのではと感じました。

若者としてできること

広い視野で歴史を学ぶ

 ―今回の経験を踏まえ、若者としてできること、したいことを教えてください。
 大津 広島市内で、通り掛かった外国の人から「この碑は何か」と聞かれ、答えられませんでした。もっと広島について学ばなくてはと思いました。

 鼻岡 ホロコーストについて詳しく学んで、身近なところにも、もっともっと学べることはあるはずだと気が付きました。

 川田 私は、ヒロシマが原爆の被害者であると同時に、日本人として加害者でもあることを矛盾だと感じながらツアーに参加しました。でも、アンネの隠れ家で働くオーストリア人の青年から「わが国もユダヤ人を迫害した歴史があるが、それを乗り越えて偏見や差別と闘わなくてはならない」と聞いて考えが変わりました。私たちは被害者でもあり加害者でもあるという矛盾を乗り越え、正しい道を進まなくてはならないのです。

 土江 「ヒトラーに政権を握らせたのは国民だ」。オシフィエンチム市の市長から、そう言われました。近く18歳から選挙権を持つようになります。私たちは政治に積極的に参加し、正しくない人に政権を握らせないようにしたいです。

 松川 アンネの隠れ家の職員から「ここに来たことで、アンネの日記を閉じてほしくない」と言われたのが印象的です。これで終わったのではなく、これから自分たちでできることを考えるのが大切です。

 河野 海外の人とも交流することによって、広く世界的な視野に立って歴史を学ぶことが大切なのだと思うようになりました。

 田辺 私は被爆3世であることを誇りとしながら原爆資料館などで学び続け、伝え続けたい。そしてボランティアとして外国の人にきちんと情報を伝えたい。

 時盛 「想像力を鍛えなくてはならない」。アウシュビッツの日本人ガイド中谷剛さんに、そう言われました。「今、核兵器が使われたら」「今、戦争が始まったら」と一人一人が想像力を働かせることが大切なのだと思います。

■現地報告

 「ユダヤ人」というだけで連行、虐殺された理不尽さ―。スタディーツアーの参加者は3月22~29日に現地を訪れ、現場の「証言」に耳を傾けた。平和を目指して行動する人にもインタビューし、思いを共有した。

ポーランド 河野さん・鼻岡さん

 アウシュビッツ強制収容所の跡を訪れ、当時の建物に展示された数え切れないほどの遺品を目にすると体が震えた。犠牲者の顔写真や子ども用も含めた大量の靴―。「ただの物ではなく、一人一人が使っていた歴史がある」

 第2収容所のビルケナウは引き込み線が伸びる。家畜用の貨車に乗せられたユダヤ人は到着後すぐに、医師の指示で生死を分けられた。労働力と見なされない老人や子どもは、そのままガス室へ。「ナチスは彼らを人ではなく、絶滅させるものと考えたから残虐に殺すことができたのでは」

 証言を聞いた生還者(89)の左腕には、収容時に入れ墨された番号が残っていた。名前という尊厳が剝ぎ取られた証拠。それでも、「生きる希望を捨てなかった」と振り返る言葉に人間の力強さを感じた。

 収容所跡のあるオシフィエンチム市の若者とは平和について意見を交換。市長とは、広島と共に戦争の悲惨さを世界に訴え続ける必要性を確認し合った。

オランダ 田辺さん・土江さん

 アムステルダム市にあるアンネ・フランク(1929~45年)の隠れ家は一家が約2年間、ナチスから逃れるため住んだ。今は資料館として公開されている。

 びっしりと字の並ぶアンネの日記の実物を見て、生きる希望を抱いていた少女に思いをはせた。ギシギシときしむ床を踏み、潜伏生活のつらさを実感した。

 「見学し終わり、パタンと日記を閉じて読み終わったように出て行ってほしくない」。館の願いを受け止め、今回の旅を出発点にして平和への思いを引き継ぎ、広めようと決意した。

NPT会議取材報告 NGOの力実感

 NPT再検討会議の取材では、2人が4月25日から9日間、米ニューヨークを訪問。国連本部での会議の様子や地元の人との交流について報告、核廃絶に向けた活動の重要性を訴えた。

 二井谷さんは「核兵器を廃絶できないかもしれないから活動しないのではなく、可能性があるなら活動するべきだ」と強調。溝上さんは、NGOセッションが国連の公式行事に認められている点に加え、対人地雷やクラスター爆弾の禁止条約がNGOの力で作られた例を紹介し、「核兵器廃絶も、実現の可能性はある」と話した。

■アピール要旨

 スタディーツアーで、戦時中の日本の加害に関する知識の乏しさを痛感した。ポーランドやオランダの資料館では責任ある立場でガイド、継承する人たちに出会った。NPT再検討会議では、NGO(非政府組織)の発言力の大きさに驚いた。

 私たちは今後、講演会などで最初に質問、発言する「ファースト・ペンギン」になる。同時に、歴史をさまざまな角度から学ぶため本や新聞を読み、人の意見を聞いた上で自分で考える。そして核兵器の現状を知り想像力を働かせる。未来の平和を築くのは私たち一人一人にかかっている。

この特集は、文・冨沢佐一、谷口裕之、二井理江、山本祐司、写真・福井宏史が担当しました。

(2015年6月1日朝刊掲載)

年別アーカイブ