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社説・コラム

『論』 岸田外相再任 いま一度 核廃絶の決意を

■論説主幹・江種則貴

 きのう発足した第3次安倍内閣で岸田文雄外相は大半の閣僚とともに再任された。引き続き戦後70年という節目に、わが国の平和外交を率いる重責を担う。

 被爆70年でもある。惨禍が二度と繰り返されることがないよう、核兵器のない世界を着実に手繰り寄せる年にしたいと被爆地は願っている。原爆の爆心地を選挙区に含む政治家として、岸田外相も核兵器廃絶の先頭に立つ決意を新たにしていただきたい。

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 言わずもがなをあえて望むのは外相に就いて2年の間、世界の核軍縮に停滞が目立つからだ。しかも、それをよしとするかのような発言が、ほかならぬ被爆国政府の外交官から飛び出した。

 今月上旬にオーストリア・ウィーンであった第3回「核兵器の非人道性に関する国際会議」。ひとたび核爆発が起きれば負傷者の救護活動は不可能だとの意見に対し、佐野利男軍縮大使は「少し悲観的だ」と反論したのである。

 確かに69年前の夏、原爆きのこ雲の下で、自ら負傷しながらも救護活動に尽くした医師や看護師は少なくなかった。

 半面、「助けて」という声を振り切って逃げるしかなく、罪の意識を背負って戦後を生き延びた多くの被爆者がいる。その証言に一度でも耳を傾けたことがあれば、事が起きた後の対応より、起きないようにする方策をまず議論すべきだと誰もが考えるだろう。

 しかも私たちは福島の原発事故を経験した。放射能の脅威を前に人間がいかに無力であるかを、あらためて思い知らされたはずだ。

 それなのに核兵器の非人道性をテーマにした会議で、それも日本政府代表団の団長が、あえて核兵器の使用を前提とするかの発言をした真意はいったい何だろう。

 会場にいた川崎哲・核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員は、自身のブログで発言の背景を細かく分析し、こう疑問を投げ掛けている。

 「核兵器は手に負えないのだから非合法化しよう、などとは言わないでくれ―。それが佐野大使のメッセージだったとすれば、まるで核保有国の代弁ではないか」

 後に岸田外相は、佐野大使に直接注意したことを明かし、「わが国の立場に誤解が生じた。遺憾だ」と述べている。

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 言葉を返すようだが、誤解は生じていない。むしろ世界の軍縮専門家たちは、米国が差し掛ける「核の傘」に自国の安全保障を依存しながら核兵器の廃絶を訴えていくという被爆国の基本スタンスを正確に認識しているはずだ。

 その証拠に、海外で体験を語る被爆者はしばしば「世界に核兵器廃絶を訴えるなら、まずは自分の国の政府の姿勢を変えたらどうか」と切り返される。

 そこは岸田外相も意識しているのだろう。昨年秋に国連で日本政府は初めて、核兵器の非人道性と不使用を訴える共同声明に賛同した。外相の強い思いが外務官僚を動かしたとされる。

 さらに外相はこのところ「核兵器の非人道性についての認識を、保有国と非保有国を結束させる触媒として活用すべきだ」と繰り返し語っている。

 ただ同時にそれは、現時点での限界にも思える。日本政府が核兵器廃絶を口にするとき、裏にはこんな文脈が隠れているからだ。

 非人道兵器とはいえ極限の状況でも使用を禁ずることは、「核の傘」の効き目をなくし、ひいては日本の安全保障にかかわる。よって被爆国は核兵器禁止条約を求める国際潮流とは一線を画す―。

 北朝鮮や中国の核に対抗する必要はあろう。ただ「核の傘」を広げっぱなしにするほかにも策はあるはずだ。日米両政府はそろって「核兵器の役割の低減」を核軍縮の道筋に掲げている。ならば被爆国は米中両国に、相手より先に核兵器は使わない「先制不使用」の共同宣言を促してはどうか。

 段階的に核軍縮を進めて最終的には廃絶する。日米両政府はそうも言うが、一種のごまかしではなかろうか。オバマ米大統領を被爆地に招いて問うてみたい。それに先駆け、岸田外相が地元で語る被爆70年スピーチを聞きたい。

(2014年12月25日朝刊掲載)

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