被爆を伝えて <3> 「さすらいのカナブン」さん 祖母の体験 ウェブ漫画に
14年8月7日
少女漫画のようなイラストで祖母の被爆体験を漫画に描き、インターネット上で公開している。タイトルは「原爆に遭った少女の話」。作者は、「さすらいのカナブン」というハンドルネームを使う、広島県内の30代女性だ。「若い人が原爆に関心を持つきっかけになれば」との思いで取り組んでいる。
祖母は、広島県粟屋村(現三次市)出身の児玉(旧姓雨田)豊子さん(86)。その体験談をありのままに描いた。祖母は1943年、広島電鉄が戦時中に設立した広島電鉄家政女学校の1期生として入学。勉強の傍ら、路面電車の運転士や車掌を務めていた。
45年8月6日。宇品方面に電車を走らせていた時、御幸橋の手前で閃光(せんこう)を浴びた。慌てて扉を開けた瞬間、電車から投げ出された。気が付くと防空壕(ごう)の中だった。比較的けがが軽かった祖母は、同じ女学校に通ういとこの増野(旧姓小西)幸子さん(84)を助け、井口村(現西区)へ避難。9日には、己斐―西天満町間で復旧した電車の運転もした。
そんな話を幼い頃から聞いていた。中学生になると「絵がうまいけえ、御幸橋の上で見た被爆者の絵を描いて」と祖母に頼まれた。原爆に遭う前の学校生活や、路面電車の乗務などの話を聞くうちに「一枚の絵よりも、原爆投下の前後の様子も含めた事実を漫画にした方が伝わるのでは」と思うようになった。
だが、自分が実際に体験したわけではない。「玉音放送を聞いてどう思った」など、具体的な心境を尋ねても明確な答えは返ってこなかった。「いつか描こう」と思いつつ、長い月日が過ぎていた。
2011年、パソコンで漫画を描けるソフトを手に入れたのを機に、手つかずだった創作を始めた。仕事が終わった後や休日に取り組み、1年ほどで完成。12年6月に自身のホームページで公開した。見せると祖母は「よう描いてくれた」と喜んでくれた。
創作中は、葛藤の連続だった。証言を補い、当時の光景を思い浮かべるため、原爆資料館に通い、文献にも目を通した。それでも「何を描いてもうそになってしまうのでは」と悩んだ。結局、それぞれの登場人物に感情を乗せることはできなかった。
公開後、作品はインターネット上で、徐々に広まっていった。5日現在、アクセス数は累計で約22万回。昨年の8月6日は1日で約3万回、閲覧された。「インターネットを利用することで、より広く発信できた」と実感する。
反響も相次いだ。「被爆者の絵は恐くて見られなかった」という感想もあった。「若い世代は直視できないのかもしれない。だが、その悲惨さも伝えないと、原爆が軽いものになってしまう」と考える。一方で、「絵が優しいから見やすい」「女学校があったのを初めて知った」といった声も届いた。
被爆69年の6日。創作途中の2作目「ヒロシマを生きた少女の話」を公開した。背中一面にガラスが突き刺さる大けがをした、増野さんの証言を基に描いた。被爆後、他県で差別を受け、心身の痛みとともに戦後を歩んだ物語だ。原発事故による差別も念頭にある。「被ばくした人が悪いわけではない。差別に悲しむ人たちの気持ちに寄り添ってほしい」と願う。
「原爆を調べていると、『伝えたい』と思うことが次々と出てくる。それを、若い人たちが興味を持てるよう描いていきたい」(石井雄一)
三次市生まれ。2012年6月に祖母の被爆証言を漫画化した。ホームページ(HP)で英訳版も公開している。インターネット通販大手アマゾンでも、電子書籍として販売。HPのアドレスは、http://homepage3.nifty.com/sasurai/
(2014年8月7日朝刊掲載)
ありのまま描く
祖母は、広島県粟屋村(現三次市)出身の児玉(旧姓雨田)豊子さん(86)。その体験談をありのままに描いた。祖母は1943年、広島電鉄が戦時中に設立した広島電鉄家政女学校の1期生として入学。勉強の傍ら、路面電車の運転士や車掌を務めていた。
45年8月6日。宇品方面に電車を走らせていた時、御幸橋の手前で閃光(せんこう)を浴びた。慌てて扉を開けた瞬間、電車から投げ出された。気が付くと防空壕(ごう)の中だった。比較的けがが軽かった祖母は、同じ女学校に通ういとこの増野(旧姓小西)幸子さん(84)を助け、井口村(現西区)へ避難。9日には、己斐―西天満町間で復旧した電車の運転もした。
そんな話を幼い頃から聞いていた。中学生になると「絵がうまいけえ、御幸橋の上で見た被爆者の絵を描いて」と祖母に頼まれた。原爆に遭う前の学校生活や、路面電車の乗務などの話を聞くうちに「一枚の絵よりも、原爆投下の前後の様子も含めた事実を漫画にした方が伝わるのでは」と思うようになった。
だが、自分が実際に体験したわけではない。「玉音放送を聞いてどう思った」など、具体的な心境を尋ねても明確な答えは返ってこなかった。「いつか描こう」と思いつつ、長い月日が過ぎていた。
2011年、パソコンで漫画を描けるソフトを手に入れたのを機に、手つかずだった創作を始めた。仕事が終わった後や休日に取り組み、1年ほどで完成。12年6月に自身のホームページで公開した。見せると祖母は「よう描いてくれた」と喜んでくれた。
創作中は、葛藤の連続だった。証言を補い、当時の光景を思い浮かべるため、原爆資料館に通い、文献にも目を通した。それでも「何を描いてもうそになってしまうのでは」と悩んだ。結局、それぞれの登場人物に感情を乗せることはできなかった。
若い世代へ発信
公開後、作品はインターネット上で、徐々に広まっていった。5日現在、アクセス数は累計で約22万回。昨年の8月6日は1日で約3万回、閲覧された。「インターネットを利用することで、より広く発信できた」と実感する。
反響も相次いだ。「被爆者の絵は恐くて見られなかった」という感想もあった。「若い世代は直視できないのかもしれない。だが、その悲惨さも伝えないと、原爆が軽いものになってしまう」と考える。一方で、「絵が優しいから見やすい」「女学校があったのを初めて知った」といった声も届いた。
被爆69年の6日。創作途中の2作目「ヒロシマを生きた少女の話」を公開した。背中一面にガラスが突き刺さる大けがをした、増野さんの証言を基に描いた。被爆後、他県で差別を受け、心身の痛みとともに戦後を歩んだ物語だ。原発事故による差別も念頭にある。「被ばくした人が悪いわけではない。差別に悲しむ人たちの気持ちに寄り添ってほしい」と願う。
「原爆を調べていると、『伝えたい』と思うことが次々と出てくる。それを、若い人たちが興味を持てるよう描いていきたい」(石井雄一)
三次市生まれ。2012年6月に祖母の被爆証言を漫画化した。ホームページ(HP)で英訳版も公開している。インターネット通販大手アマゾンでも、電子書籍として販売。HPのアドレスは、http://homepage3.nifty.com/sasurai/
(2014年8月7日朝刊掲載)