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米の毒ガス処理 文書確認 敗戦直後の竹原・大久野島 広島大 石田助教 「化学物質 近海投棄か」

 旧日本陸軍の毒ガス製造拠点だった大久野島(竹原市)で戦後間もなく、米陸軍部隊が進めた毒ガス原料などの処理実態を、広島大文書館の石田雅春助教(日本近現代史)が米軍文書で突き止めた。1946年から英連邦占領軍が太平洋などへ投棄する以前の詳細な記録。毒ガス工場の元所長らのわずかな証言はあったが、具体的な内容はつかめていなかった。一部の化学物資は島周辺の海に投棄された可能性もあるという。(林淳一郎)

 石田助教は、米軍の進駐状況について2004年ごろ米国立公文書館で調査。その中で、広島に進駐した第41師団による毒ガス処理に関する膨大な文書を見つけ、分析を進めてきた。

 一連の文書によると、第41師団は45年11月初め、専門部隊を大久野島一帯に派遣。同月、びらん剤のイペリット原料になるチオジグリコール84トンや毒性のあるシアン化ナトリウム(青酸ソーダ)33・4トン、発煙筒などを廃棄したと記す。

 派遣部隊の計画書(11月28日提出)には投棄候補地が見られ、くしゃみ剤原料などは大久野島の南東海域を挙げる。第41師団の文書では、46年1月末で、チオジグリコール113トンなど7種類の化学物質や発煙筒を「廃棄」としており、石田助教は「発煙筒は焼却し、化学物質は大久野島周辺に投棄したのでは」とみる。

 一方、猛毒のイペリットやルイサイトは備後灘へ投棄との記述が同じ計画書にあるが、同師団の文書の記述は「未廃棄」。機雷の掃海が進まず、実行できなかったとみられ、進駐軍の再編後、英連邦占領軍に処理が引き継がれたようだ。広島県知事らの投棄中止要望もあり、同県に引き渡された薬品類もあった。

 このほか、第41師団は川上(東広島市)や切串(江田島市)、日之浦(呉市安浦町)で旧日本海軍のイペリット爆弾計1万7847発を確認。切串の4810発を豊後水道南側へ向けて運び、45年12月23日に海中投棄したことも分かった。

 米進駐軍の毒ガス処理に関する記録は、大久野島の元所長や職員の断片的な証言などがある。石田助教は「毒ガス処理の空白を明らかにし、戦争が地域に何をもたらしたのか見つめ直したい」と話す。論文を学術誌「日本歴史」8月号(吉川弘文館)に発表する。

実態・要因分かる

 中央大の吉見義明教授(日本近現代史)の話
 米軍は毒ガスの前駆物質を廃棄したようだが、危険な毒ガスには基本的に手を付けておらず、その実態と要因が今回の研究で分かり興味深い。さらに資料を検証し、地元の証言と照らし合わせていけば新たな事実が浮かび上がるはずだ。

さらなる究明を

  市民団体・毒ガス島歴史研究所(竹原市)の山内正之事務局長の話
 米軍が化学物質を大久野島近海に捨てたという住民らの証言はあったが、予想以上の多さだ。毒ガスの惨禍を語り継ぐためにも、さらなる究明を期待したい。

大久野島の毒ガス工場
 竹原市忠海町沖3キロの大久野島に1929年、旧陸軍造兵廠(しょう)火工廠忠海兵器製造所が開所。びらん剤やくしゃみ剤、催涙ガスを製造し、敗戦時の貯蔵量は3千トン超とされる。46年5月~47年5月、英連邦占領軍と日本の企業が高知県沖へ投棄、製造施設の除毒などをした。毒ガスの一部や器材が同島近海に捨てられたという証言や記録も。ボンベを引き揚げた地元漁業者らの死傷事故も相次いだ。

(2014年6月5日朝刊掲載)

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