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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <22> 市長・自治体①

■報道部 西本雅実

 戦後の広島の市長は被爆都市としての使命と責務を担う。歴代で六人を数えた。

わけても原爆が人類絶滅の兵器と訴え、復興の礎を築いた初代公選市長の浜井信三さんは、ヒロシマの骨格をつくった。平和式典、平和記念公園の建設、原爆ドーム保存…。「今われわれが為(な)すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁(まい)進し…」。今も脈々と流れる浜井さんの遺志と、平和宣言に表れた彼に続く市長たちの平和への訴えをみる。併せて長崎からみた広島を本島等・前市長に聞いた。

 折々の時代の中で揺れ、批判を受けながらも貫く市長・自治体の平和への営みは、ヒロシマ市民の歩みでもある。

 
平和都市建設に遭遇 「原爆市長」故浜井信三さん

  だれが名付けたのか。浜井信三市長のあだ名は、古くからの清涼剤であった。口の悪い議員たちはその商品名で呼んだ。その意は「毒にも薬にも…役に立たん」。それもひとえに「ボス議員らの言いなりにならなかった」からである。

 広島復興の旗手であった浜井市長の横顔を、百万都市になるまでの広島市政の舞台裏に詳しい元中国新聞記者の兼井亨さん(74)はそう描く。

 原爆10周年の1955年、浜井さんは、その兼井記者にくどかれ中国新聞紙上に「広島市政秘話」という74回の手記を載せている。「浜井さんは議会での答弁も同じ。部下、人任せじゃなく自分の言葉、信念を持っていたなぁ」。今は無くなったものを探すように兼井さんは述懐する。

 しかし。市政という現実を担い、理想を訴える「原爆市長」の道は平たんでなかった。いばらが続いた。

 浜井さんは1905年広島市に生まれている。広島高師付属中、一高、東京帝大。これ以上は望むべくもないコースを歩みながら、土木技師をしていた父を早く失い、卒業間際には胸を患う。広島商工会議所を経て、30歳で書記として市役所に入った。

 戦争中は、30数万市民の胃袋を預かる市の配給課長だった。そのころのエピソードが「浜井信三追想録」にある。「憲兵隊からお礼にもらったパンを浜井さんに渡したところ『この食糧の無い時にどうしたのか』と目の色が変わった。非常に厳格だった」

 あの日も、職務に対する厳格さをいかんなく発揮している。烈火に包まれた市役所に駆け付け、翌日からは郡部で炊き出した握り飯を配って回った。

 その年の末に助役となり、47年4月初の公選市長に就く。秘書課にいた歴代の市職員OBが「正月休みも満足に取れなかった」と異口同音に言う。それほど広島の復興に寝食を忘れ取り組んだ。

 その情熱が今も生きる「広島平和記念都市建設法」(49年公布)を実現させ、政府の復興財源増額を引き出す。12万2000平方メートルに及ぶ平和記念公園をはじめ原爆慰霊碑、原爆資料館、防災道路である100メートル道路の建設を推し進めた。新たな復興資金をと、米国で外債募集計画にも動いた。

 復興、平和都市建設に込めたその思いは「(原爆犠牲者に)理想都市広島を建設してはなむけにしたい」(53年広島青年会議所)というものであった。

 もっとも、その浜井市長の考えがすんなり受け入れられたわけではない。市民の大半が日々を生き抜くのが精いっぱいの時代。

 財源不足で工事中断が続いた原爆資料館は「鳥カゴ」とやゆされ、100メートル道路は市議会で「無用の長物」と難じられた。ついに55年、3期目の選挙では、「道路を50メートルにし住宅地にする」とぶちあげた渡辺忠雄氏の前に涙をのんだ。「広島市政秘話」は、この直後に原爆10年の広島の歩みを残す狙いで書かれた。

 「選挙でもはったりを言えない。それと本当に清貧の人だった」。占領下時代に秘書で付き添った元市職員の村上幸彦さん(77)は、その落選した選挙で農協から借りた金の保証人になったと言う。

 浪人中は、1男3女の父でもある浜井さんは生活のため女子高の教壇にも立った。その失意の間も、第1回原水禁世界大会広島準備会長を引き受け「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒロシマズ」と訴えている。

 59年現職を破り返り咲きを果たす。市民は、人口増によるゴミ処理や違法建築で進まぬ都市整備に、市長としての手腕を託した。だが、この後半の8年間で、浜井さんの名が全国に知れ渡ったのは、何といっても66年に起こった原爆ドームの保存募金運動であろう。

 ドームは戦後、原爆忌前後に出ては消える存廃論議を繰り返すうち、風雨で自然崩壊の危機にあった。

 「わたしたちは、これを未来への道標としたいのであります」。市長自らタスキがけでマイク片手に、東京・数寄屋橋でドーム保存の募金呼び掛けに立つ。運動は一気に全国へ広がり、130万人を超す人々から浄財が寄せられた。

 この5月に国史跡指定が事実上決まり、ユネスコ世界遺産登録リストへの推薦も確実になった原爆ドーム。今になると「浜井さんは一貫してドーム保存に積極的だった」と、持ち上げる証言者もいる。

 しかし、本人は長い間「金をかけてまで残すべきではないと思っている」の発言を繰り返している。なぜなのか。

 市長を退く直前の市会(67年3月)での答弁。「(保存を)ちゅうちょせざるを得なかった1つの理由は、被爆者の多くの人たちが、悲惨な当時の思い出を残すようなものは、至急にのけてくれという強い意見のあったことも事実です」。ドームを恨みの遺物とみられるのも懸念していた。

 浜井さんと冬の数寄屋橋に立った元市議の松下一男さん(82)は「石橋を何度もたたき渡らないことがある人でしたからね。それが保存をいったん決めると、募金の成否を案じる周りを押し切って訴えたもんです」と振り返る。

 あだ名のいわれ、選挙でもはったりが言えなかったように、平和への訴え方も派手さはないが地に足がしっかりついていた。厳格。きまじめ。慎重。そして隠れた人情家であった。

 原爆孤児たちに「奨学金」をポケットマネーで送っていた。その一人、悦子・ラタイジャックさん(57)は西ドイツに渡り、夫の転勤でスペインに住む。「東京の大学に進み学費が足らなくなったのを心配した私の高校の恩師が相談すると、支援してくださったんです。お会いした際の穏やかな人柄が忘れられません」。国際電話の先でそうしのんだ。

 ヒロシマ市長の務めを聞かれたインタビューでは、「広島市民の声なき声を忠実に世界に伝えるのだ」(65年)と答えている。それは終生、自身の被爆体験に根差していたと言える。

 「主人が原爆で助かったのは運命というか…。私の両親と同じようになっていたはずだったんです」。浜井さんの妻文子さん(81)は、広島市佐伯区の自宅でためらいながら、「運命」のてんまつを語った。

 夫妻は結婚以来、爆心地近くの榎町に居を構えていた。果実問屋を営む文子さんの実家であった。それが、原爆投下前日に浜井さんのおいの法事が大河(現南区)の実母の家であった。市役所での空襲警戒が明けると、榎町でなく再びそこへ戻り、浜井さん夫妻と子供たちは爆死を逃れた。

 「焼跡をさまよい歩く人の群れ… 義母も叔父も叔母も、当日以来消息が分からなかった… 会ったという人があると聞いたので、様子を尋ねたいと思っているうちに、その人も原爆症で死んでしまった」(「広島市政秘話」より)

 浜井さんはおびただしい屍(しかばね)の街を目に焼き付け、白血球が正常値の半分に下がると自家輸血でしのぎ、さい配を振るっている。当時の粟屋仙吉市長たち幹部や部下の多くが亡くなっていた。自ら決断し、動くしかなかった。

 「自分にも厳しい、いちずな人でした」と文子さん。腕時計をすると、被爆のためか絶えず皮膚がかぶれた。ABCC(原爆傷害調査委員会)で健康診断を欠かさなかった。缶入りピースを離さない愛煙家でもあった。

 浜井さんはドーム募金のため数寄屋橋に立ったちょうど1年後の68年2月26日、平和記念館で参院選出馬の決意表明を終えたその場で急死した。心筋こうそく。まだ62歳の働き盛りであった。

 広島市高天原墓苑にある墓石には、原爆慰霊碑の碑文一節を取り「安らかに眠って下さい」と刻まれている。その碑文で「『過ち』はだれなのか」と論争が起きたことに「広島市政秘話」はこう述べている。

 「互に罪は罪としてわびるべきはわびて、再び過ちを繰り返さないよう努力することのみが、ただ1つの平和への道であり戦争犠牲者への最大の手向草ではないだろうか」

<参考文献>「市政秘話」「原爆市長」(浜井信三)▽「浜井信三追想録」(同追想録編集委員会編)▽「広島市議会史」(広島市議会)▽「平和式典の歩み」(宇吹暁)▽「平和宣言集」(広島平和文化センター)▽「広島・長崎の平和宣言」(鎌田定夫)▽「ゆるす思想 ゆるさぬ思想」(本島等・山口仙二)

(1995年6月18日朝刊掲載)

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