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ヒストリー

ヒロシマの記録1952 8月


1952/8/1
ヒロシマ・ピース・センター東京協力会発足のための準備会を開く。世話人に池田勇人蔵相夫人、田中耕太郎最高裁長官夫人、石川達三氏夫人、真杉静江さんら
1952/8/2
浜井広島市長が市会で「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と答弁
1952/8/4
原爆犠牲者の俗名、死亡年月日、年齢をいろは順に記入した原爆死没者名簿15冊と、御影石製の奉納箱(縦2メートル、横1.24メートル、高さ0.76メートル)完成
1952/8/5
広島市己斐小学校で平和の集い。全校児童1,226人が校庭で平和を誓い、続いて原爆孤児100人を招き「平和の集い慰安会」
1952/8/5
広島市千田町、二葉の里、金輪島、安芸郡坂町などで見つかった遺骨のうち無縁仏506柱を戦災供養塔に合祭
1952/8/6
中国新聞を通じ8月6日メッセージ。ノーマン・カズンズ、マービン・グリーン、パール・バック、アルフレッド・パーカー、フロイド・シュモー、エメリー・アンドリュース、ウィリアム・デビン、メアリー・ジョーンズの各氏
1952/8/6
ラジオ東京が映画「原爆の子」を放送劇化して電波に乗せる
1952/8/6
被爆7周年。初めて中島新町の平和記念公園で約1,000人参列し原爆死没者慰霊式・平和記念式。施設収容の戦災孤児5人の手によって広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)を除幕、犠牲者5万7,902人の氏名を記した原爆死没者名簿を奉納。原爆慰霊碑を通して原爆ドームが浮き上がる設計だった。しかし、見通せたのはバラックにあえぐ被爆者の生活。慰霊碑の後ろからドームまでぎっしりバラックが建っていた。バラック隠しの幕を張って碑は除幕された
1952/8/6
広島平和問題談話会が世話人となり、広島地区労働組合会議、各民主団体が主催し中島市民広場で約800人が集まり広島平和市民大会。大会宣言「30余万市民ならびに28万原爆犠牲者の霊の名で、一切の原子兵器の製造と使用を禁止し、戦争の危機を除くために全世界の良心とえい知が結集されるよう訴える」
1952/8/6
浜井市長平和宣言「時は空しく過ぎるものではない。7年の間私たちは心に受けた恐ろしい傷跡をじっと見詰めてきた。思えば人間の犯し得る誤りの余りにも深刻なのに戦慄せずにはいられない。けれども私たちは人間の善意と寛容とを信じている。己の尊厳をけがすことなく、むしろそれを生かすことによってかえって世界に通じる道のあることを信じたい。一人の心の中に愛情の火を点し、二人の心の中にそれを受け継ぎ、やがてはそれが一つの聖火へ燃え続けるとき、きっと世界は良心の輪によって一つに結ばれるに違いない。私たちは素直に反省し、このことを個人としての、また市民としての責任において考え、かつ実践することを尊い精霊たちの前に誓うものである」
1952/8/6
西ドイツ・シュツットガルト市で国際反戦同盟支部が「広島原爆の日を記念する世界平和記念式典」を開く。「武器を捨てよ」と宣言
1952/8/6
岩波書店が岩波写真文庫で「広島~戦争と都市」出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1952/8/6
日本映画社撮影「原子爆弾の効果」の抄録をアサヒグラフ8月6日号に「原爆被害の初公開」として発表。4回にわたって増刷。70万部を発行(「アサヒグラフ・1982年8月10日増刊号」)
1952/8/6
映画「原爆の子」が広島福屋名劇で試写会。北星映画配給。入場料100円。9月から全国上映
1952/8/6
釈放戦犯のうち広島県出身者らが東大付属病院に原爆乙女を見舞う
1952/8/6
宗教家、日本仏教讃仰会、国際母の会などが主催し東京・築地本願寺でノーモア・広島平和法要
1952/8/7
葉室潔舞踊研究所が「交響詩・ひろしま」を広島児童文化会館で発表。作詞、木下夕爾氏、作曲、宮原順次氏
1952/8/7
広島駅前に平和記念ポスト。御影石製、頭に広島県出身彫刻家、円鍔勝三氏の少年少女2人の像 1952/8/7
米ユタ州在住の広島県出身者がオーデン市で原爆追悼会。集まった香料を18日広島市に寄付。1950年以来毎年
1952/8/8
「原爆の子友の会」が広島児童文化会館で「原爆の子の集い(母と子の会)」。1,000人参加
1952/8/8
長崎市が戦後初めて平和祈念祭を三菱会館で行う(「長崎年表」)
1952/8/8
ABCC運輸部が人員整理問題で48時間ストに突入
1952/8/9
広島市元安橋と相生橋間の元安川でひろしま川祭り。10日も。水上音楽会で「平和の歌」など合唱
1952/8/9
平和式典に広島を代表し高校、中学生各1人が長崎市から招待される。田川務長崎市長が平和宣言「今や世界は、冷たい戦争の様を呈し、再び戦争への不安感をつのらしているが、わが国は独立国として、平和憲法のもと世界の恒久平和に貢献せんと決意している。人類愛と文化の交流を基調とする国際親善をはかり、国際間の紛争防止につとめ、もって世界平和の悲願を達成せんことを全世界に向かってここに宣言する」
1952/8/10
原爆被害者が自主的に団結して治療、生活を安定させるとともに平和運動を推進しよう、と広島市油屋町、知恩会館で原爆1号吉川清氏ら約50人が中心になり「原爆被害者の会」結成。申し込み会員は250人。「あの日のせん光をこの身に刻みこんでから、私たちの受けた傷こんは消えるどころか、ますます広く深く生活の中にくいこんで私たちを苦しめています。このままでいくなら、私たちは永久に廃虚にはえた雑草のかげに見捨てられてしまうに違いありません。どうしても私たち自身が立ち上がり、手をつないでいかなければ私たちを守ることはできなくなりました。そこで私たちは多くの平和団体の協力をえて、原爆被害者の会をつくることにいたしました」。役員に吉川清、佐伯晴代、内山正一、上松時恵、峠三吉氏。事務所を吉川氏宅に置く
1952/8/13
日教組などの「原爆の子」製作で広島市雑魚場町の市教育会館にシナリオ・ライター八木保太郎氏、「原爆の子友の会」会員、長田新氏、広島県教組関係者ら70人集まり懇談会
1952/8/14
朝日出版社が「原爆第一号~ヒロシマの写真記録」出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1952/8/15
国連軍縮委員会でコーエン米代表が「米は国際協定によって原子爆弾や細菌兵器が廃棄されない限り、侵略を阻止するためにこの種兵器を使用する権利を留保する」と言明
1952/8/24
「原爆被害者の会」が第1回幹事会。当面の運動目標として原爆症患者の治療についての交渉開始と資金募集を決める
1952/8/24
原爆慰霊碑の碑文「過ちは繰返しませぬから」をめぐり前田栄之助広島女子短大教授が妥当とする論を中国新聞に掲載
1952/8/26
米ワシントン大のアルフレッド・フィスク哲学教授が同大の女子学生7人と広島入り。原爆乙女たちと平和運動について座談会
1952/8/26
東京で広島、長崎特別都市建設促進議員連盟総会。原爆犠牲者の援護救済を働き掛けへ
1952/8/--
「原爆の子友の会」が新藤兼人監督の映画「原爆の子」製作に協力した会員5人を除名にするなど内紛
1952/8/--
原爆障害者の治療と更生を目的にした「ヒロシマ・ピース・センター東京協力会」の募金運動が5,000万円を目標にスタート。俳優の高峰秀子、高峰三枝子、田中絹代、三船敏郎、長谷川一夫さんらが協力
1952/8/--
日教組中央委員会が日教組独自の映画「原爆の子」製作を決める。「世界最初の原爆を受けた日本人は、原爆禍の広島を正視し、深い意識を持つと共に全世界に対してその実相と罪悪を正確率直に公表し、訴えなければならない義務と権利を持つ」とし「いかにしてあの日を正確に再現するか」が最大の目標。全国の組合員が50円カンパし、2,400万円を準備。八木保太郎氏のシナリオは広島県教組で全組合員の討議に付し4回書き直す(「原爆三十年」)
1952/8/--
広島県内のアマチュア・シネ・スライド協会の教師たちがスライド「原爆ひろしま」を製作。未発表の原爆写真なども含む
1952/8/--
厚生省がABCCの研究対象被爆者に広島、長崎両県内の郡部の4万5,000人も含めることを決定。1953年度予算約2,000万円で調査へ

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