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ヒストリー

ヒロシマの記録1953 8月


1953/8/1
NHKが中央共同募金会と協力し「原爆障害者に救いの手を-たすけあい旬間」を開始、10日まで。東京、大阪、広島、長崎など全国9都市で公開番組を放送、入場者から寄付を募る。浄財は広島、長崎の原対協へ贈る
1953/8/1
原爆乙女の治療費募金にヒロシマ・ピース・センター東京協力会が銀座松屋で「映画スターブロマイド・サイン募金」を開催。有馬稲子、森雅之氏らが参加、2日も
1953/8/1
長崎原対協が、長崎大学医学部で原爆障害者の診察を始める(「長崎年表」)
1953/8/3
広島、長崎両市長、市議会議長の連署で提出した「原子爆弾による障害者に対する治療援助に関する請願」が衆院で採択、参院は6日採択(「広島原爆医療史」)
1953/8/3
広島市が復興途上の市の全容を空から撮影。4日も。16ミリ天然色映画を製作し、一般公開や日米太平洋沿岸市長会議で上映を計画。社団法人おおとり会広島支部が企画
1953/8/3
被爆8周年を前に中国新聞社が「原爆と平和の問題」座談会を3、4の両日に掲載。出席者は浜井広島市長、長田新広島大名誉教授、三村剛昂広島大理論物理学研究所長、蜂谷道彦広島逓信病院長の4人
1953/8/3
広島出身の映画スター月丘夢路、千秋姉妹が広島市戦災児育成所の孤児の精神養姉になることを申し出
1953/8/3
広島同胞援護財団が広島市内36小学校の戦災孤児400人を似島海水浴場へ招待
1953/8/4
広島県安芸郡府中町の龍仙寺に保管されていた原爆死没者の遺骨143柱を慰霊法要、広島市に移管。8月6日に広島戦災供養塔に納骨。原爆時の避難死没者で、143柱のうち67柱は引き取られたが、56柱が引き取り人不明、20柱が氏名不明
1953/8/5
名古屋市の細字彫刻家、牧原玄氏が慰霊のため象牙に原爆死没者5万8,293人の名前を刻印し、多宝塔に安置して広島市に寄贈。6日に開眼式
1953/8/5
原爆障害者救済の全国運動を繰り広げるNHKで原爆乙女・佐古美智子さん作詞「ほほえみよ還れ」の歌がテレビ放映
1953/8/5
広島市の己斐小学校で「平和のつどい」を開催。4年生以上600人が平和への誓い。72人の同校の原爆遺児を慰め
1953/8/6
被爆8周年。原爆死没者慰霊式・平和記念式。慰霊碑前に市民約3,000人が参列。新たに391人の犠牲者名簿を奉納。浜井広島市長が平和宣言
1953/8/6
広島戦災供養会主催の各宗派合同慰霊祭が供養塔で。似島の供養塔でも慰霊祭
1953/8/6
広島二中の原爆犠牲者の追悼碑が平和記念公園内で除幕式
1953/8/6
広島平和婦人会が慰霊碑と供養塔前で原爆障害者治療費募金。約1万3,000円を中央共同募金会に送付へ
1953/8/6
広島郵便局の原爆慰霊碑が比治山多聞院境内に完成、除幕式と慰霊祭。同郵便局は出勤の288人全員が死亡
1953/8/6
飢餓を救うための世界果樹植え付け運動に呼応し、広島市が全国に先がけ平和記念公園の一角にカキ、クリを植樹。米オークランド市のアルフレッド・パーカー氏の要請に応じる
1953/8/6
原対協が供養塔前と広島赤十字病院、広島市民病院に被爆者健康相談所を臨時設置。慰霊祭参列の原爆障害者や遺族らから治療要望の聴取や各種相談。計39人が訪れる(「広島原爆医療史」)
1953/8/6
爆心地の本川小学校に原爆資料室が開設。かつて同小に奉職した山崎与三郎氏が収集資料を提供
1953/8/6
広島平和国民大会が広島児童文化会館で開催。総評、県労、地区労など全国45団体約7,600人が参加し、平和宣言。「8月6日の惨状を永久に忘れることのできないわれわれは恒久的な平和達成のため再軍備、軍事基地化にあくまで反対、断固平和を闘いとることを誓う」。市内デモ。5日、同会館で前夜祭
1953/8/6
広島市鉄砲町の宿舎で被爆死した丸山定夫氏ら移動演劇団さくら隊の原爆犠牲者をしのび、東京都目黒の羅漢寺境内の原爆殉難碑で追悼法要
1953/8/6
浜井広島市長平和宣言「あの戦りつすべき日から、ここに8年の歳月が過ぎた。原爆下の広島の惨状は、いまもまざまざとわれわれの眼に浮かんでくる。しかし1個の原子爆弾がのこした罪悪のあとは、いまなお消えるべくもなく続いている。それはこんごの戦争の深刻さを警告し、人類が自らの滅亡を望まないならば、再び武器をもって争ってはならないことを教えている。われわれは世界最初の原爆を身をもって知った広島市民として、全世界の人々に、重ねてこの事実を伝え、われわれもまた、決意を新たにして、平和確立のために精進することを謹みて地下の貴き御霊に誓うものである」▽吉田首相メッセージ(代読)「世界の平和を目指して民主主義にもとづく文化国家を建設することは、わが国憲法の理想とするところであり、われわれ国民の進むべき目標であります。新しい広島市の建設もこの意味においてわが国の理想を世界に宣明せんとするものであり、広島市の成長は平和的文化的の日本国家の成長を表徴するものであります。身をもって尊い平和の礎となられた地下の諸霊も民主日本の成長発展をのぞみおらるるものと信じてうたがいません」
1953/8/6
広島平和国民大会を取材中の山陽新聞の記者が参加者に暴行を受ける
1953/8/6
広島県青年演劇協会の実験劇団「たくま座」が第1回公演として広島児童文化会館で「姉の言葉」上演。八木隆一郎氏原作。復員した従軍看護婦の姉が原爆症に苦しむ妹を注射で安楽死させる
1953/8/6
広島県深安郡加茂村婦人会が原爆乙女の治療更生費に村内募金5,515円をヒロシマ・ピース・センターに郵送
1953/8/6
岩国市の豊岡やす子さん自作の琵琶浪曲「ああ原爆の思い出」がラジオ中国から全国放送
1953/8/7
8月6日のさい銭が原爆慰霊碑、広島戦災供養塔、似島供養塔など計6万7,151円。広島戦災供養会の供養塔建設基金へ繰り入れ。同基金は30万32円に
1953/8/7
天理教広島教務支庁婦人青年会が原爆障害者の治療費として1万559円をNHKたすけあい運動に寄付。6日に供養塔横で募金
1953/8/7
原爆体験画家、福井芳郎画伯の「広島原爆絵画展」が東京・日本橋の白木屋で開幕。戦後7年間に制作した「炸裂後15分」「学徒」など27点を展示。12日まで(8・8、8・8夕)
1953/8/7
広島電鉄家政女学校の元職員、山崎与三郎氏が中国新聞夕刊に「学校原爆遭難記」を掲載。広島電鉄直営の女学校で、全生徒のうち26人が犠牲に
1953/8/7
原爆乙女の幸福を描いたラジオドラマ「この花を見よ」がNHKで放送
1953/8/8
ソ連のマレンコフ首相がソ連最高会議の民族・連邦合同会議で演説。「米はもはや水素爆弾を独占していない。ソ連はいまや水素爆弾の生産を習得した」。これに対し米原子力専門家は「ソ連の工業力では到底まだ水爆研究が製造段階まで発達したとは考えられない」と疑問視
1953/8/8
第2回ひろしま川祭りが相生橋河畔で開催。原爆死没者の慰霊をかねて水上音楽会や花火
1953/8/9
劇作家・大沢幹夫氏作の舞台劇「原爆の子」(全3幕)が広島児童文化会館で上演。昼夜2回。「原爆の子友の会」も出演
1953/8/9
長崎被爆8周年。爆心地の松山公園で長崎市、原爆慰霊奉賛会主催の原爆犠牲者供養ならびに平和祈念式典。吉田首相メッセージ(代読)、田川務市長が平和宣言。「私たち長崎市民は私達が身をもって体験した原爆の惨苦を、二度と再び地上の人類に繰返させてはならない。…本日の記念日にあたり、平和を愛する諸国民の公正と信義に依頼する覚悟を新たにし、全世界に正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願してこれからの市民生活の営みの上に一つ一つその実を積んでいくことを七万有余の精霊の前に誓うものである」(「長崎市平和宣言集」)
1953/8/9
生存被爆者の手記集「原爆に生きて」の出版記念会が広島市雑魚場町の教育会館で
1953/8/9
日本アマチュア・シネ・スライド協会広島支部が製作したスライド「原爆ひろしま」の試写会が広島市中央公民館で
1953/8/10
日教組製作の映画「ひろしま」の試写会を広島ラッキー劇場で開催。上映後に関川秀雄監督、長田新広島大名誉教授、原爆の子友の会会員など約40人が参加して座談会
1953/8/10
広島平和国民大会を取材中の山陽新聞記者が暴行を受けた件で広島県報道懇話会が大原亨実行委員会議長に抗議
1953/8/10
原対協が第2次治療を開始。約30人が目標。3月6日からの1次治療では13人に外科治療
1953/8/11
米統合参謀本部議長に就任予定のラドフォード提督がソ連の水爆保有について「マレンコフ首相の発表は作り話とは思わない」と語る
1953/8/12
ソ連政府が「水素爆弾を爆発させた」と8月20日、発表。ソ連共産党機関紙プラウダと政府機関紙イズベスチヤも水爆実験実施の政府公式発表を掲載。ストラウス米政府原子力委員長も「ソ連は8月12日に水爆の実験を行った」と認める
1953/8/12
米シアトルで開かれる日米太平洋沿岸市長会議に出席のため浜井広島市長が広島を出発。戦後の広島市の復興建設状況などを説明へ
1953/8/12
ダレス米国務長官が記者会見。ソ連・マレンコフ首相の水爆保有発言について「真偽は疑わしい。言明前後にソ連でこれを裏付ける爆弾実験が探知されたことはない。西欧諸国間の分裂と混乱を作り出すのが狙い」
1953/8/13
原爆によるとみられる白血病患者の広島市段原大畑町、井関芳朗さんが死去。41歳
1953/8/19
広島在住の作家斎木寿夫氏が中国新聞夕刊に随想を掲載。「『原爆乙女』という呼びかたからも彼女たちを解放してやりたいと思う」
1953/8/21
北大西洋条約機構(NATO)に近い軍事筋がソ連水爆実験に関連し「米は近く原子砲を欧州に送ることになろう」と言明
1953/8/21
反共色の強いマッカーシー米上院特別分科委員長が記者会見。政府印刷局内で共産党員が水爆資料の機密に近づいたとの水爆スパイ嫌疑を発表。同局幹部は事実を否定
1953/8/22
スミス米国務次官が声明を発表。「米は依然、原子力の国際管理に賛成」。ソ連の水爆実験後、ワイリー上院外交委員長から求められた国務省見解の回答
1953/8/23
米政府原子力委員のラルフ・ラップ氏がCBS放送で「ソ連が多数の科学者を研究に従事させれば水爆研究は米に先んじていることがあり得る」と述べる
1953/8/23
米空軍が原爆搭載用のB36爆撃機の太平洋無着陸横断訓練をすると発表。25日、1番機が神奈川・横田空軍基地に着陸
1953/8/25
英の大衆新聞デーリー・スケッチ紙が日教組製作の映画「ひろしま」批判をトップ掲載。「日本人は8年後の現在も憎悪の念をかき立てている」
1953/8/26
原爆で全壊しバラック建てだった浦上駅舎が落成(「長崎年表」)
1953/8/27
全日本仏教会議が高野山で開幕。29日まで。世界平和広島仏舎利塔建設を協議、全仏教徒あげて建設を推進することを決議
1953/8/31
米政府原子力委員会が「ソ連は8月23日に原子爆弾の実験を行った」と発表。同委員会は、ソ連も小型原子爆発物など一連の原爆実験を進めていると推測(9・2、9・2夕)
1953/8/--
原爆投下時の広島駅の被害状況報告書を元国鉄広島管理部保線課長の江尻唯一氏が保存していることが判明。報告書は当時の広島駅長木村英雄氏が広島駐在鉄道部隊長に被災状況を知らせた走り書きメモ
1953/8/--
広島、長崎ABCCの被爆者調査資料により、広島と長崎で二重に被爆した生存者は全国で最低15人いることが判明。長崎県内12人、神奈川、兵庫、熊本県内各1人
1953/8/--
原爆投下後の惨状を写真撮影した広島市仁保町大河、山村正敏氏が初めて名乗り。陸軍軍属の宇品船舶兵団の報道班員として1945年8月8~11日に市街地や似島などの被災状況を100数コマ撮影
1953/8/--
フィンランドのジャーナリスト、エルキ・サボライネン氏が中国新聞社に「原爆体験を教えてほしい」と手紙。「極東見聞記」編集のため
1953/8/--
原対協が内科審査部会で要治療患者の治療方針を決定
1953/8/--
広島で被爆した移動演劇団さくら隊の原爆殉難碑(東京・羅漢寺)の副碑を広島に建てるため、東京の劇団関係者が中国新聞社に土地探しなどを依頼

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