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ヒストリー

ヒロシマの記録1953 7月


1953/7/1
原爆障害者の米治療班派遣問題で調査研究のため広島市を訪れた米テキサス大教授ブロッカー博士が原爆乙女のまぶたを手術。同市の原田病院で原田東岷氏、ABCC外科医師の月藤春夫氏と日米外科医による初の共同手術
1953/7/1
英など西欧11カ国がスイス・ジュネーブに欧州原子力研究所を設置する協約に調印
1953/7/2
米政府原子力委員会の前委員長ディーン氏が上院歳出分科委員会でABCC調査結果を報告。広島、長崎の被爆生存者調査で(1)原爆放射能は出産数に無影響(2)放射能をあびた子供たちは骨格の発達が阻害されている(3)7万人の幼児を調査した結果、親が放射能で負傷した場合、その子供は多く異常性が認められる(4)白血病の症状は爆心から2キロ以内にいた人々の間では非常に多く、死亡率は常人より10倍も高い
1953/7/3
広島市の平和大通りに3つ目の橋「緑大橋」が完成し渡り初め式。小網町-東観音町間の天満川を結ぶ
1953/7/5
広島地区司令部の報道班員だった大木茂氏が被爆体験の絵と文を「原爆遭難図譜」として中国新聞夕刊に連載開始。14日まで10回
1953/7/7
大阪市の厚生年金病院に入院した広島の原爆乙女2人のうち1人が初診察
1953/7/8
原爆乙女の歌「ほほえみよ還れ」にフォークダンスの振り付けができ、広島市内の高校教師や女生徒50人が国泰寺高校で講習。原爆記念日に平和記念公園で女子高生が披露
1953/7/10
米政府原子力委員会のグレーブス実験部長がアルバカーキでのテレビインタビューで「ソ連は200~500個の原爆を保有しているものと思われる」と語る
1953/7/12
広島市が平和記念都市建設に外国債券募集を計画。上京の浜井広島市長が地元出身の全代議士らと協議。総額1,000万ドル(36億5,000万円)、30年年賦、年利5分。浜井市長「停滞がちの建設事業にテコ入れするには外債しか方法がない」。広島市の建設事業計画は国の補助、市財政とも乏しく全体の13.6%の施工率
1953/7/13
広島市表彰審査委員会が被爆当時の人命救助、応急復旧の功労者調査を完了。個人、団体計約600人を8月6日に表彰へ
1953/7/16
東大付属病院小石川分院に治療入院の原爆乙女1人が退院。17日に広島に帰る
1953/7/16
原爆孤児救済募金のため広島県教組が広島児童文化会館で「芸能の夕」を開催。日教組映画「ひろしま」撮影で広島滞在中の山田五十鈴さんら俳優、スタッフも参加。17日も
1953/7/17
広島市計画課がイタリア・ナポリ大学の依頼で、平和記念都市建設事業計画などを建設省に送付。都市計画研究に同大が資料を要望
1953/7/18
UP通信が「米は新しい水素爆弾の実験準備を進めているもよう。今秋、ビキニ環礁で行われるのではないか」と報じる
1953/7/20
原爆障害者救済の寄付金受け付けが全国のNHK、共同募金会、郵便局で始まる。8月20日まで。寄付金は広島、長崎の原対協に
1953/7/21
広島市史編さん室が詳細不明だった1941年~50年の市勢実態を把握するため生存者懇談会を開催。原爆から生き残った市職員、市議、旧軍人関係者から空白の9年間を聴取
1953/7/22
広島市の袋町小4年生150人が原爆ドーム内の草取り作業
1953/7/23
日本アマチュア・シネ・スライド協会広島支部が原爆への怒りをテーマに製作したスライド「原爆ひろしま」が第1回全国コンクールの最高位賞を受賞
1953/7/25
日本最大のサイクロトロンを備えた原子核研究所が東大に付設と決定。予算7億円、3カ年計画で建設。日本学術会議の勧告で文部省が設立
1953/7/30
広島市史編さん室が被爆当時の軍関係死没者数を調査。「3万3,000人を超えない」と推定。当時広島にいた部隊動員従事者16人から状況聴取。兵舎の収容能力からみて当日の兵員数は最大5万2,000人、このうち市南端に位置し大きな災害を免れた宇品地区の暁部隊を差し引けば、全員死亡しても3万3,000人と推定。従来の軍関係死没者数4万~8万人を下回る
1953/7/30
米政府原子力委員会が上半期報告書を発表。(1)水素爆弾用原料の大規模な生産を近く開始することが可能(2)原子力潜水艦2隻の完成は近い(3)今春ネバダ州で11回にわたり原爆実験が行われ貴重な資料が得られたため、秋の全面的実験は不必要(4)原子力軍事工場の建設は本年夏コロラド州デンバー付近のロッキーフラッツにできる原子力工場で完成し、一部は既に操業を開始
1953/7/30
米の著名な婦人運動指導者で前全米婦人有権者同盟会長アンナ・シュトラウス女史が広島市を訪問。「原爆は戦争のための一つの武器。使用うんぬんより戦争の原因をなくすべきである」
1953/7/31
原爆孤児援助の集いが広島児童文化会館で開催、8月1日も。広島出身の月丘夢路、千秋のスター姉妹が出演。3日と7日に益金計13万8,940円を浜井広島市長に寄贈
1953/7/31
「米国家安全保障会議は英と原子力秘密情報を交換するため原子力法改正を議会に勧告する予定」とロイター通信が報じる。米議会は1946年、両国間の原子力秘密情報交換を制限する法案を可決
1953/7/31
軍人、軍属の原爆死没者数について中部復員連絡局広島支部が「1万5,000人を超えない」と推定。全国各県の世話課を通じた弔慰金支給調査で死没者数は1万2,300人、届け漏れ推定死没者2,000~3,000人を加えても約1万5,000人程度
1953/7/--
原対協が外科以外に新たに内科、眼科の治療を決め、希望者にカルテ提出を要望
1953/7/--
広島市の森弘助治調査課長が、原爆死没者数は「10数万人が妥当な線」との推定を出す。市社会課の「推定20数万人」に対し、原爆当時に広島市内にいた推定人口は20万人台で、被爆生存者数15万7,000人(社会課集計分)も最小限で今後増える可能性があり、差し引きで死没者数10数万人と推定
1953/7/--
8月7、8日に米軍が長崎市にまいた原爆警告ビラ1枚が市民から長崎市原爆資料保存委員会に提供。ザラ紙の両面に石版刷り。「即刻都市より退避せよ。日本国民に告ぐ!米国はいまや何人もなし得なかった極めて強力な爆薬を発明するに至った。今回発明せられた原子爆弾はただ1個をもってしても巨大なB29・2,000機が1回に搭載し得る爆弾に匹敵する。われわれは諸君がこの戦争をやめるよう陛下に請願することを望む」
1953/7/--
長崎市が原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典に初の試みとして世界各国元首のメッセージ発表を計画、各国大使館を通じ25カ国に依頼。デンマーク、タイ、セイロン、ドイツ、スイスから送られてくる(「長崎年表」)

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