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ヒストリー

ヒロシマの記録1953 1月


1953/1/5
全ネパール仏教徒大協会のアンムリタナンド委員長が広島市を訪問。世界平和広島仏舎利塔建設会の招き。19日まで県下20カ所で「仏舎利塔建立大講演会」を開催
1953/1/7
トルーマン米大統領が任期満了を控え最後の年頭一般教書を議会に送る。「もしわれわれがソ連の軍事的脅威に対抗する軍事力を持っていなければ、世界平和を実現しようとするわれわれの努力は水泡に帰する。原子力の発展した現実にかんがみ、ソ連が共産主義的世界観を修正するよう要請する」
1953/1/8
ラベット米国防長官が下院軍事委員会の秘密会で軍事勧告案を説明。「朝鮮問題の休戦交渉行き詰まり打開策はない」。この発言を機に米議会内に朝鮮での原爆使用論が台頭
1953/1/8
宅和純広島市宇品小教諭の童話「原爆ドームの蛇の子」が中国新聞夕刊紙上に掲載
1953/1/10
「広島大教育学部東雲分校子どもを守る会」の決起大会が同校で開催。会長に片山英治氏(1年)。子供の環境調査から着手し、日本人の手による原爆孤児の精神養子運動に乗り出す
1953/1/10
平和記念都市の建設費、幹線道路費が削減される。広島市の高山一二助役が上京から帰り語る
1953/1/13
広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)が発足。広島県医師会館で県、市両医師会、広島医大などの医師ら21人が会合。「原爆障害の研究、治療の対策を審議し、その推進を図ることを目的とする。事業は(1)原爆障害者の治療、健康指導(2)研究、治療に関する行政措置の要請」の方針を決定。会長に浜井広島市長(「広島原爆医療史」)
1953/1/14
フランス月刊誌レビュー・フランセーズ特派員シャン・ダッドー氏が広島市を訪問。「広島、長崎を見て原爆は想像以上に恐ろしい」
1953/1/15
社会福祉法人の広島戦災児育成会(広島県佐伯郡五日市町)が広島市に移管。8日発令された育成所長事務取扱の丹羽諦順氏は「情熱と誠意を持ってさらによい施設にする」
1953/1/15
キンボール米海軍長官が米海軍の原子力化計画について言及。「米海軍はゆくゆく完全に原子力化されることになろう。私としては今後建造予定の超大型空母12隻のうち少なくとも8隻は原子力空母にしたい。現在2隻建造中」
1953/1/15
長崎市教委ほか21団体が、長崎労働会館で19日まで丸木位里・俊夫妻の「原爆図展」を開催。連日3,000人が訪れる(「長崎年表」)
1953/1/16
整地中の広島市幟町の幟町中学校校庭(元泉邸跡)から4体の遺骨を発掘。帯剣から軍人と推定
1953/1/17
被爆体験をもつ古月澄子、峰子姉妹の率いる古月創作舞踊団が東京・日比谷公会堂で舞踊劇「ノーモア・ヒロシマズ」を公演。原爆を再現した創作バレエが招待の各国大公使らに好評
1953/1/18
原対協が初の診察を広島市民病院で実施。原爆障害者75人を広島医大、市民病院の医師団が診察(1・17、「広島原爆医療史」)
1953/1/19
日教組製作の映画「原爆の子」の題名変更問題で広島大の長田新教授が原著版権者として語る。「『原爆の子』は2度目の映画化だからといって『ひろしま』に変更することは絶対承服できない」
1953/1/19
「原爆の子」のフランス語訳の申し込みが出版元NRFから編者の広島大の長田新教授に。教授は快諾
1953/1/20
大阪弁護士会の岡本尚一弁護士が広島、長崎の弁護士64人に手紙。「原爆投下は国際法上の違反行為だから、損害賠償の請求が可能」と原爆損害賠償請求を提案(「ヒロシマの記録」)
1953/1/20
アイゼンハワー米新大統領が就任。パレードで85トンの原子砲が初めて公に姿を現す
1953/1/20
治療のため列車で上京する長崎の原爆乙女3人を、広島の原爆乙女7人と谷本清牧師が広島駅で迎え激励
1953/1/21
仏舎利塔建設打ち合わせのため、日本山妙法寺管主藤井日達師と世界仏教徒会議広島大会のインド首席代表エム・グルメスワル師が広島市を訪問。22日、「広島の情勢を早速セイロン仏教会に伝えるため新聞(中国新聞)を関係方面に送付した」と語る
1953/1/21
ABCCの定例研究会で同所検査主任コネル博士が「広島市民の寄生虫症」と題し報告。広島市民1万1,871人の検便結果、全体の56.3%が回虫保有者と判明(1・24夕)
1953/1/24
広島市の大型宣伝ポスターが完成。平和大橋と白ハトを配した12色刷り。全国の主要都市に発送し観光客誘致へ
1953/1/25
中国新聞夕刊に作家志條みよ子氏の「『原爆文学』について」の一文掲載。「原爆を書かない小説や原爆を取り上げない絵画は広島の人間に限り、真の作品でないごとく言われている。7年もたった今日、もうそろそろ地獄の絵を描いたり、地獄の文章ばかりをひねり上げることからは卒業してもいいのではないか」
1953/1/26
広島市議会厚生委員会が原爆障害者に対する治療費補助について市と協力し厚生省などに運動する方針を決定
1953/1/26
米政府原子力委員会が「3月初めにラスベガス実験場で新たに改良された原子力兵器について一連の実験を行う。陸海空軍および海兵隊の将兵1万8,000人が参加し、部隊作戦の演習訓練も実施」と発表
1953/1/26
「広島大教育学部東雲分校子どもを守る会」が送った日本人の手による精神養子運動の趣意書が朝日新聞東京版に掲載。28日に最初の申し込み(「広島県史・原爆資料編」)
1953/1/28
「広島大教育学部東雲分校子どもを守る会」の片山英治代表が中国新聞夕刊で日本人の手による原爆孤児の精神養子運動を呼び掛ける。「生存することすら拒否されようという限界まで追い詰められている原爆孤児のために、あらゆる社会層がこの問題を重大な社会問題として取り上げるとともに『日本人の手による精神養子』の運動を推進すべき」
1953/1/28
米政府原子力委員会が議会に第13次半期報告を提出。過去10年の原子力開発の成果を強調。「最近半年間における原子力研究の進歩は、単に水爆関係のみならず新しい改良型原爆、軍艦用原子力エンジン、一般産業用原子動力などあらゆる分野にわたる」
1953/1/28
広島平和記念都市建設事業費の増額陳情のため浜井広島市長が上京
1953/1/30
ダフ米共和党上院議員がフィラデルフィアで演説。1952年11月1日のエニウェトク環礁実験について「わずか1個の爆発物で小さな島が全く姿を消した。この爆発物は広島、長崎に投下された原子爆弾の約1,000倍の爆発力を持つ」
1953/1/31
作家志條みよ子氏の「『原爆文学』について」の一文に広島中央百貨店重役の筒井重夫氏が中国新聞夕刊紙上で反論
1953/1/--
広島市東部、広島県西部復興事務所が区画整理事業1953年度計画のうち立ち退き期限が切れながら未着手の2,300戸について強制執行も考慮。未着手地域は広島駅前、白島、千田、平塚、天満、中広町など
1953/1/--
広島市に届いた国内外の寄付金の総額が1948年9月以来4,300万円に。27年中は497万8,000円で前年より166万円増加
1953/1/--
動員学徒に対する弔慰金交付のため、広島大福山分校付属高校が前身の山中高女の戦没学徒遺族らを捜す。学徒報国隊で出動の390人余中55人が連絡取れず
1953/1/--
映画「原爆の子」輸入の依頼状がフィリピンの映画会社モノグラム・フィルム・エキスチェンジ代表ブラウン氏からヒロシマ・ピース・センターの谷本清牧師に届く
1953/1/--
盛岡市の城南小と広島市の牛田小児童がノーモア・ヒロシマズの手紙を交換。盛岡で上映の「原爆の子」がきっかけ
1953/1/--
動員学徒に対する弔慰金交付のため広島市の崇徳学園が消息不明41人の遺族らを捜す。学徒報国隊、職場国民義勇隊員として出動した520余人中の不明者を対象
1953/1/--
厚生省が国予算で初めて原爆患者の実態調査の実施を打ち出す。国立予防衛生研究所を中心に被爆者の就職、結婚状況などを調査し更生指導へ

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