ヒロシマの記録1965 4月
70年1月1日
1965/4/1
核禁会議が被爆20周年を記念して「1,000万円核禁募金」始める
1965/4/2
広島県PTA連合会が被爆児童生徒の救援資金として30万4,636円を原爆病院に寄託
1965/4/2
日本被団協が被爆20周年事業として、被爆体験記を中心とする原爆関係文献の収集事業を決める。被爆に関係するあらゆる文献を集め、保管する。東京・学士会館で森滝市郎理事長、作家の大江健三郎、吉野源三郎岩波書店編集長、坂本義和東大教授が参加呼びかけを発表。賛同者は作家、文化人の阿部知二、井上光晴、開高健、芹沢光治良、堀田善衛、日高六郎(東大)、小川二郎(広島大)、藤田省三(法政大)、久野収(学習院大)、金井利博(中国新聞論説委員)の各氏
1965/4/3
米が原子炉を積載した衛星の打ち上げに成功。3,500年は軌道上にとどまる見込み
1965/4/5
広島市の原爆資料館がソ連のレニングラード国立博物館と米ウィスコンシン州ウエスト・デ・ビア高校に原爆資料送る。焼けた竹、かわら、高熱で溶けたガラス、自転車のサドルのバネなど。原爆資料館が被爆資料を外国に送るのは初めて
1965/4/5
東京・俳優座劇場で原爆投下機のパイロットの苦悩を描いた「ザ・パイロット」公演。宮本研氏作(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1965/4/5
沖縄祖国復帰協議会が「沖縄の被爆者に原爆医療法が適用されていないのは日本国憲法に違反する」など本土との差別9項目18件の違憲訴訟を提訴へ。被爆者で参加は丸茂つる、謝花良順、翁長生(以上、広島被爆)、真喜志津留子、真喜志オト(同、長崎被爆)の5氏
1965/4/6
「ヒロシマ、20年後」製作のためニューヨーク・ナショナル教育テレビのプロデューサー、アンドリュー・スターン氏が広島入り
1965/4/6
総理府と厚生省による沖縄在住被爆者の調査始まる。20日まで。安日晋長崎原爆病院内科医長ら4人
1965/4/7
広島市が被爆20周年を記念して募集した広島市歌の歌詞に広島市立戸坂小校長の西村福三さんが入選
1965/4/8
インドから広島市の平和記念公園にハスの苗4株の贈呈式。市は「平和の鐘」の周りの池に移植へ
1965/4/10
1959年に27歳で骨髄性白血病のため亡くなった瀬戸奈々子さんの記念碑が広島市の三滝墓地の林田家の墓の横にできる。碑文は闘病日誌「かえらぬ鶴」の一節「あまりにも残酷な取返しのつかぬ現実に苦しみながらも私は生きぬかなければならない」
1965/4/13
日本原水協の常任理事会で、安井郁氏が執行代表委員を辞任し顧問に就任。日本原水協は畑中政春代表理事体制になり、共産党色を一段と強める
1965/4/14
原水禁国民会議が衆院議員会館で第1回全国委員会。被爆20周年原水禁世界大会の日程、日本の非核武装宣言を要求する3,000万人平和投票運動の進め方を正式決定。北爆停止などベトナム停戦アピールも発表
1965/4/14
沖縄の原爆被爆者医療援助で広島市の原田東岷、水野宗之両医師が出発。約2週間沖縄本島と八重山諸島の被爆者を調査
1965/4/15
衆院社会労働委員会が原爆被爆者に対する医療手当引き上げを決めた原爆医療法改正案を可決。「原爆スラム」に対する住宅の総合対策の確立、沖縄の被爆者対策に万全を-など付帯決議
1965/4/16
「私はなぜ広島に帰ったか」。バーバラ・レイノルズさんが中国新聞に手記掲載。「広島に真実の平和センターの設立を」
1965/4/16
原爆ドーム保存を訴える「原爆で同胞を失いし者」の投書が中国新聞に掲載。ドーム永久保存会長に広島市長、副会長にジョンソン米大統領、コスイギン・ソ連首相、佐藤首相を日本世話人会長に、と主張
1965/4/19
日本青年団協議会の招きでソ連青年団体の3人が広島訪問
1965/4/19
広島に関係した評論、小説、映画、演劇の各作者が中国新聞紙上で発言。評論「ヒロシマ・ノート」大江健三郎氏、小説「アメリカの英雄」いいだ・もも氏、演劇「ザ・パイロット」宮本研氏、映画「とべない沈黙」黒木和雄氏、同「かあさんと呼べた」今井正氏
1965/4/20
原水禁広島母の会(升川貴志栄代表)がライシャワー駐日米大使にベトナム戦争中止を求め抗議文
1965/4/20
法務省が日本平和委員会(平野義太郎会長)から出されていた中国、北ベトナム両国平和委員会代表5人の入国申請を拒否
1965/4/21
日本学術会議の原子力特別委員会で坂田昌一名大教授が「政府の原子力委員会は原潜の安全性を確認したが、これは米からの一方的な資料による確認で、自主科学的な判断に基づいた安全性の確認ではない」と意見表明。今後も特別委で問題を追及へ
1965/4/21
国連本部で1960年以来5年ぶりに国連軍縮委員会開催
1965/4/21
茨城県東海村の日本原子力発電会社東海原子力発電所の営業用原子力発電所が臨界へ向け原子の火入れる。16万6,000キロワット。電力各社の共同出資で総工費377億円。1960年1月着工
1965/4/22
米がベトナムで小型核兵器の使用も。UPI電が伝える。来日中のロストウ米国務省政策企画委員長は否定
1965/4/24
米各紙が一斉に「米政府、ベトナムで原爆使用を考慮か」と報道。北京、ハノイ、モスクワへの政治的、心理的効果を狙い意識的な報道操作の可能性が大
1965/4/26
歌手の坂本九さんが原爆病院を訪問
1965/4/28
社会党・総評系の広島県原水禁が平和記念館で春季総会。辞任した伊藤満事務局長の後任は森滝市郎代表委員が兼務。田辺耕一郎原水禁広島市協議会理事と伊藤氏は代表委員に
1965/4/29
医療援助で沖縄を訪れていた原田東岷、水野宗之両医師が帰る。「調査団の沖縄入りで82人といっていた被爆者が172人にまで増え、原爆症認定患者として厚生省の原爆医療審議会に提出できる症状を持つ人も14人いた」。厚生省との協議で、本土治療は早ければ6月に実現へ
1965/4/30
近藤泰夫京大名誉教授(福山市出身)が「原爆ドーム保存を訴える」と題して中国新聞に寄稿。「原爆ドームは、被爆都市広島を象徴する記念聖堂であった。世界でも類例のない文化財である。原水爆を永久にこの地上から抹殺するためにも、現在の位置に現状のままで残してほしい」▽5月4日付で「原爆ドームは撤去せよ」と反論の投書。続いて再反論の投書。投書欄で論争続く。5月1日以降、保存を求める投書8通、撤去求めるは5月4日の1通だけ
1965/4/--
日本原水協が「被爆者救援運動の手引き」を発刊。80ページ
1965/4/--
広島弁護士会(勝部良吉会長)が「原爆被害に対する補償原案」を作成。24日、日本弁護士連合会の司法制度調査会で審議へ。(1)原爆による障害が原因で死亡したときは弔慰金として遺族に10万円(2)原爆による身体障害者には障害の程度により年6~18万円の年金-など
1965/4/--
原水禁五日市町協議会が同町光禅寺境内に五日市町に避難して亡くなった身元不明者100人の遺骨と義勇隊、学徒動員、町民の慰霊碑を建立
1965/4/--
広島市が前年に引き続き8月5、6、7の3日間、平和記念公園の原爆慰霊碑前広場を平和団体などの集会に使用させないことを決める