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ヒストリー

ヒロシマの記録1975 4月


1975/4/1
日米対等運営の財団法人「放射線影響研究所」(広島市比治山)が開所式。ABCCの研究、調査を引き継ぐ。山下久雄理事長は「大学など地域の医療、研究機関とも連携して研究を進めたい」
1975/4/1
韓国人原爆犠牲者慰霊碑について中国新聞に「平和記念公園の外にあるのは納得できない」と在日韓国人から投書。1986、87、88年を中心に投書相次ぐ
1975/4/2
美祢市の中国自動車道で放射性同位元素イリジウムの運搬車が事故、落下した鉄製容器から放射能が漏れる。7月24日、運搬会社と関係者17人が書類送検
1975/4/3
パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長がカタールの首都ドーハで演説。「イスラエルは3~5発の核爆弾と核弾頭運搬ロケットを保有」
1975/4/3
社会党が原水禁運動の統一を目指す「社共会談」と各界代表による協議会開催を共産党に申し入れ。共産党も「新提案として検討したい」
1975/4/5
米から里帰りした広島市佐東町出身、下紺政子さん(カリフォルニア州ビバリーヒルズ)が平和記念公園の原爆供養塔の姉の遺骨を30年ぶりに受け取る
1975/4/5
米エネルギー研究開発局が「ネバダで地下核実験を行った」と発表。この年3回目
1975/4/6
サダト・エジプト大統領が米タイム誌のインタビューで、「イスラエルがそうするなら、エジプトは核兵器所有の放棄を宣言する用意がある」と発言
1975/4/7
米核実験に対し荒木広島市長が抗議電報。8日、広島被爆者団体連絡会議の労組員や被爆者ら約100人が原爆慰霊碑前で座り込み
1975/4/8
太平洋非核化会議(1~6日、フィジー)に出席した原水禁国民会議の森滝市郎代表委員が帰国。米など22カ国の平和団体代表90人が参加。太平洋非核化条約の草案作りとマーシャル諸島ロンゲラップ島への医療調査団派遣を国連に働きかけることを決議
1975/4/11
宮沢喜一外相とキッシンジャー米国務長官の日米外相会談が米国務省で開かれ、(1)米の核能力は日本への攻撃に対し重要な抑止力(2)日本への核、通常攻撃に対し、米は防衛義務を重視-などを確認
1975/4/14
放影研が初理事会を開き、名称変更の方針を決める。「日本放射線影響学会から紛らわしいとの指摘があることや研究業務を的確に表現していない」が理由。現名称に「原子爆弾」などをつける案が提起
1975/4/15
長崎県漁連が定例理事会で、原子力船「むつ」の長崎県への新母港設置反対を決める(「長崎年表」)
1975/4/15
英のジェーン兵器年鑑1974、75年版が発刊。「米ソ2超大国間の軍備拡大競争は衰える気配がなく、中国も独自の軍備拡充を進めている」
1975/4/16
核実験抗議船フリーの乗組員男女4人が東京・赤坂の国際芸術家センターで開かれた演劇グループKIVAの演劇「ホピ(平和)の書」公演に特別出演、核兵器のない世界と平和を訴える。19日まで
1975/4/17
米エネルギー研究開発局が韓国に核分裂性ウラニウム235を含む希濃縮ウラン45トン以上を売却契約。米民主党のアスピン下院議員が発表
1975/4/19
米原子力潜水艦ハドックが横須賀港に入港。25日に出港
1975/4/19
原爆記録映画「ノーモア・ヒロシマ」の広島撮影が始まる。原水爆禁止映画運動推進委員会や日本原水協が母体で製作。20分、カラー。被爆後30年たった広島、長崎の被爆者の訴えや核問題、原水禁運動などを女優磯村みどりさんがルポ
1975/4/19
韓国人被爆者の現状を聞くため、鹿児島県日置郡松元町の日高隆二郎さんが韓国へ出発。被爆者の声を「長崎の証言の会」が発行する「長崎の証言」に収録
1975/4/19
原子力船「むつ」の新母港選定を進める政府が鹿児島県薩摩郡の甑島を最有力候補地にし、地元折衝に入る方針を固めた-と政府関係筋が明らかにする
1975/4/20
欧州11カ国と欧州駐在の米4原子力協会が、パリで欧州原子力協会の設立定款に署名。21日から5日間、最初の事業として第1回欧州原子力会議を開会
1975/4/22
南アフリカが最近、遠心分離方式によるウラン濃縮技術の開発に成功-とパリで開会中の第1回欧州原子力会議で南アのウラン濃縮会社が明らかにする
1975/4/22
自民党が外交調査会、安保調査会などの合同会議で核拡散防止条約の批准問題を協議。「米の核抑止力について今後も日米間で十分詰めてほしい」など6項目の政府要望をつけて同条約の今国会提出を了解
1975/4/23
日本原水協の佐藤行通国際部長がジュネーブで開かれる国連の核拡散防止条約再検討会議にオブザーバーとして出席するため日本を出発。原水禁団体代表が国連の会議に招かれたのは初めて
1975/4/23
衆院社会労働委員会が政府提出の原爆被爆者特別措置法改正案を審議。新設の保健手当に論議が集中。24日、森滝市郎広島大名誉教授ら被爆者代表3人の参考人が「国家補償の考えに立った援護法制定を」などと意見を述べる。この後、政府に援護対策の強化を要望する付帯決議をつけ、賛成多数で改正案を可決
1975/4/24
広島市の平和記念公園対岸にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑の敷地内に市議会議員選挙のポスター7本が立てられ、在日韓国人が同市選挙管理委員会に抗議
1975/4/24
外務省の山崎敏夫アメリカ局長が参院外務委員会で沖縄の嘉手納米軍基地に駐留している第347戦術空輸航空団について答弁。「核輸送能力を持ってはいるが、核が持ち込まれていることを意味するわけではない」
1975/4/24
衆院社会労働委員会で田中正巳厚相が、在韓被爆者問題について答弁。「韓国の要請はないが、いろんな角度から被爆者救済に努力したい」
1975/4/24
動力炉・核燃料開発事業団東海事業所(茨城県東海村)の再処理工場核燃料移動プールで、機械調整中の作業員10人が放射性同位元素コバルト60のガンマ線で被曝。許容量以下。安全不確認の初歩的ミスが原因
1975/4/25
広島市の被爆者夜間検診が原爆被爆者福祉センターで始まる。初日は34人が受診。昼間働く被爆者の受診率向上が狙いで、当面、毎月第4金曜日に実施
1975/4/25
政府が核拡散防止条約の批准承認案件を閣議決定、国会に提出
1975/4/26
米原子力管理委員会が、ゼネラル・エレクトリック社製の発電用原子炉(沸騰水型)の一部に炉心装置で異常振動を起こす機種のあることが判明-と発表。同構造の原子炉を使う10発電所に運転状況報告を求める。17日、東京電力の福島原発で異常振動が報告されたことが発端
1975/4/26
米原子力誘導ミサイル巡洋艦ロングビーチが横須賀港に入港。5月10日出港
1975/4/26
広島原爆病院に入院中の韓国人被爆女性、崔英順さんが島根県美濃郡匹見町で小学校時代の同級生と30年ぶりに再会し同窓会。27日には益田市内で旧制益田高女の同窓会。崔さんは匹見小を卒業、同高女在学中に学徒動員先の広島市で被爆
1975/4/28
「核兵器完全禁止を願う広島学者文化人の会」(会長、飯島宗一広島大学長)が広島市で懇談会を開き、原水禁運動の統一について討議。静岡県の原水爆禁止運動統一促進準備会のメンバーら15人が参加
1975/4/28
原子炉の安全性を連邦政府の委嘱で調査していた米カリフォルニア大のハロルド・ルイス教授ら学者グループが「現在、米の原子力発電所に取り付けられている安全装置は十分でなく、原子炉の大事故や放射能汚染を確実に防げる保証はない」との結論を発表
1975/4/28
米環境保護局が米政府にプルトニウム増殖型原子炉の開発を4年ないし10年間延期するよう勧告する書簡を送った-とニューヨーク・タイムズ(28日付)が伝える。「安全性や放射性物質処理の研究が必要」が理由
1975/4/30
広島平和教育研究所が平和教育カリキュラム(第1次試案)を発表。全教科を平和教育の視点で洗い直し、被爆体験の継承を中心に、「戦争がなぜ起こったか」の総合的なとらえ方を前面に出す。広島県内の全小中学校に配るほか、全国平和教育シンポジウムでも提案へ
1975/4/30
米エネルギー研究開発局がネバダ核実験場で地下核実験を行ったと発表。この年5回目
1975/4/--
広島県が「原爆30年-広島県の戦後史」の刊行を計画。「太平洋戦争」「原爆被災」「原水禁運動」「被爆者援護」など8章を予定。編集委員は今堀誠二広島大教授、庄野直美広島女学院大教授、永田守男中国新聞論説委員、湯崎稔広島大原医研助教授ら6人、県史編さん室が協力
1975/4/--
広島市民生局が失業対策労務者の実態調査。回答2,356人のうち1,333人(57%)が被爆労務者、うち1,008人(75.6%)が健康不安、生活苦58.8%
1975/4/--
広島大原医研の鎌田七男講師が、白血病になる前の血液に細胞形態や染色体異常が高率で起きていることを突き止める。6日、日本医学会総会で発表へ
1975/4/--
画家の丸木位里、俊夫妻が制作中だった「南京大虐殺の図」がほぼ完成
1975/4/--
原爆資料館の住友銀行広島支店(広島市紙屋町1丁目)前石段に刻まれた「死の人影」が30年間の風化で薄くなり、同館が復元方法を研究。1971年1月に資料館に移されたが、さらに薄くなる
1975/4/--
独立プロの「現代ぷろだくしょん」(東京・新宿)の山田典吾監督が原爆をテーマにした劇画「はだしのゲン」(原作・中沢啓治氏)の映画化を計画
1975/4/--
米国立公文書館から広島市が取り寄せた米戦略爆撃調査団の原爆被災資料で、陸軍関係の被災状況の一部が判明。1945年12月に作成された陸軍復員局の概要報告で、原爆当時、第2総軍司令部、中国軍管区司令部など13の司令部と部隊で計2万4,158人の軍人が駐屯。陸軍関係死傷者は死亡6,082人、行方不明687人、傷者3,353人
1975/4/--
放影研に改組したABCCが最後の論文として、被爆線量と悪性リンパ腫などの発生率についての研究結果を医学雑誌「広島医学」最新号に発表。「100ラド以上の高い線量を浴びた広島の被爆者は、悪性リンパ腫と多発性骨髄腫の発生率が高い」。1ラド以下の被爆者に比べ悪性リンパ腫は8倍、多発性骨髄腫は4.9倍
1975/4/--
広島市が過去、1971年まで治療目的以外のビザで入国した外国人被爆者にも被爆者健康手帳を交付していた事実が判明。1974年7月に国が条件を打ち出して以来、「治療ビザ入国」など厳しい条件がつけられており、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部は「すべての被爆者に手帳を-との世論に逆行」と条件緩和を訴え
1975/4/--
多量の放射線を浴びた近距離被爆者に支給される保健手当(月額6,000円)をめぐり、支給対象者を被爆距離で決めようとする厚生省と被爆地の町名による支給を主張する広島県、広島市の意見が対立
1975/4/--
広島市消防局の「原爆広島消防史」の編集が終わる。1974年7月から編集作業を始め、捜し出した生存者177人、遺族165人らから聞き取り。空白に近かった被爆時の消防活動が明らかに。6月刊行を目指す

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