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ヒストリー

ヒロシマの記録1991 5月


1991/5/2
国際原子力機関(IAEA)が「専門家を2週間以内にイラクに派遣、すべての核物質貯蔵場所を特定し除去」と発表。IAEAが特定国の核物質除去権限を行使するのは、1957年の設立以来初
1991/5/4
ソ連軍がノルウェー国境のコラ半島を世界最大の核兵器集積地としていることが、ノルウェー国際問題研究所の調査で判明
1991/5/6
米ソ中短距離核廃棄条約(INF全廃条約)の対象となる米最後の核ミサイルがテキサス州ロングホーンの基地で処分。846基目
1991/5/7
広島原爆投下の直後に降った「黒い雨」降雨地域と、住民への影響を再検討している「黒い雨に関する専門家会議」(座長、重松逸造放射線影響研究所理事長)が3年間の研究報告書案まとめる。シミュレーションでは従来より北西方向に広がったが、健康影響は解明できず
1991/5/7
広島市で里帰り治療中のブラジル在住被爆者政田俊子さんと松本政子さんが、広島市と広島県に被爆者健康手帳を申請
1991/5/7
仏国防省が「南太平洋ムルロア環礁で7日、核実験を行った」と発表
1991/5/7
日本国内4コースを走り継いだ「ピース・ラン91」の最終ランナーが東京にゴールイン
1991/5/7
広島市の広島共立病院が被爆二世の診療結果をまとめる。貧血などが多発傾向、肝臓疾患も上位に
1991/5/8
平岡広島市長が仏核実験抗議文を駐日仏大使に送る。10日、被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前で座り込み。座り込みは1973年に始め通算450回に
1991/5/8
参院社会労働委員会が野党6会派提出の被爆者援護法案を継続審議とすることを決定
1991/5/9
白ロシアのオリガ・アレイニコワ女医が来日し、小児白血病患者がチェルノブイリ原発事故前に比べ2倍強に増加と説明
1991/5/9
在日本大韓民国居留民団広島県地方本部の沈東烈団長ら新役員が広島市役所を訪れ、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園への早期移設で協力要請
1991/5/9
政府が核拡散防止条約未締約国に対する政府開発援助について、条約締結への努力の度合いを勘案し援助の方針決める
1991/5/10
笹川記念保健協力財団がチェルノブイリ原発事故被曝者の医療協力で医師団41人をソ連に派遣
1991/5/10
千葉県松戸市在住の被爆者尾形隆憲、てる子さん夫妻が退職を機に全国約1,600の非核・平和宣言自治体を訪ねる「平和巡礼」に出発
1991/5/11
日本原水協の「1991年国民平和大行進」東京―広島コースがスタート。7月初旬までに全国11コースが出発へ
1991/5/12
チェルノブイリ原発事故で汚染されたソ連白ロシア共和国の女医オリガ・アレイニコワさんが広島市を訪れ、市民の集いで広島の援助を訴え
1991/5/12
タス通信が「ソ連は米ソ中短距離核廃棄条約(INF全廃条約)に基づき最後の中距離ミサイルSS20をロシア共和国カプスチンヤール実験場で破壊した」と報道。1987年に米ソが調印した同条約の履行が完了
1991/5/12
永井隆博士の没後40周年を記念する集いが長崎市内で開かれ、被爆者ら200人が出席(長崎新聞5・13) 1991/5/13

広島県と広島市が「黒い雨に関する専門家会議」を解散。黒い雨地域の見直しに直接つながらず、時間的な経過から新たな判断材料は得にくいと判断
1991/5/13
ブッシュ米大統領が、米が保有する化学兵器の使用を禁止し、10年間で全廃を命じる声明を発表
1991/5/14
市民グループ「平和公園の在り方を問う86人委員会」(代表、相原一博広島キリスト教社会館)が韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園への移設を7,000人の署名を添え広島市に要望▽在日本朝鮮人総連合会広島県本部の梁寿男委員長ら幹部が平岡広島市長を訪ね、在日本大韓民国居留民団広島県地方本部が示した「韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑」の新碑文案を拒否する意向を示す
1991/5/14
世界保健機関(WHO)が、チェルノブイリ原発事故の国際的な調査センターのソ連設置を決議
1991/5/15
放射線被曝者医療国際協力推進協議会(会長、重松逸造放射線影響研究所理事長)が広島県庁で第1回幹事会を開き、ブラジルとソ連から要請のあった研修医ら7人の受け入れを決める
1991/5/16
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が「1945年以来の核実験によるがん死者は最終的に世界中で240万人に達する恐れがある」との調査結果を発表
1991/5/17
米軍岩国基地内に核、生物、化学戦訓練施設「NBCチェンバー」があると基地週刊誌「トリイテラー」が報道
1991/5/18
仏国防省が「ムルロア環礁で18日、核実験を行った。規模は60キロトン以下」と発表
1991/5/18
動力炉・核燃料開発事業団が福井県敦賀市に建設していた高速増殖炉(FBR)原型炉「もんじゅ」が完成、機能試験を始める
1991/5/18
国際原子力機関(IAEA)が、チェルノブイリ原発事故による住民の健康被害や環境汚染について調査報告書まとめる。「住民に放射線被曝による健康被害はまだなく、今後大規模な疫学調査をしてもがんや遺伝的影響の増加を見分けるのは困難」と深刻な影響を否定
1991/5/19
大阪市原爆被害者の会が「被爆45周年被爆者~大阪市に生き抜いて」を発行
1991/5/19
平岡広島市長が仏核実験に抗議文
1991/5/20
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の「核兵器生産の環境に及ぼす影響国際調査委員会」のアンソニー・ロビンス委員長が広島市役所で記者会見。地下核実験場から放射性物質が漏出する危険性を指摘
1991/5/20
ソ連保健省が、チェルノブイリ原発事故で145人の重症患者のうち30人が死亡し、事故による死者は当初発表の約2倍の61人と発表
1991/5/21
ニュージーランド政府が「仏領ムルロア環礁での核実験に抗議しない」と発表。労働党政権時代からの非核政策で冷却化した米との同盟関係修復を狙う
1991/5/21
仏核実験に抗議し被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前で座り込み
1991/5/22
原子力船「むつ」が第2次実験航海のため青森県むつ市の関根浜港を出港。原子炉を動力源に初めて外洋に出る
1991/5/23
広島市の本川小学校児童が描いたポスターが第2回世界平和児童ポスター展(イタリア)に出品が決まり、同校で引き渡し式
1991/5/24
国際原子力機関(IAEA)本部で開かれたチェルノブイリ原発事故の環境、人体影響に関する会議で、ソ連ウクライナ共和国など地元3共和国が調査に対する不満と継続を訴え
1991/5/24
広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長が、北朝鮮に広島の被爆者が26人いることを新たに確認と発表。確認した被爆者は36人に
1991/5/25
米コロンビア大のモーリス・ハッチ教授が「スリーマイル島原発事故のストレスで周辺住民に一時的にがんが増加」と米公衆衛生学誌に発表
1991/5/27
第2回国連軍縮京都会議が4日間の日程で国立京都国際会館で開幕。37カ国の外相、軍縮担当者、学者ら100人が、東西の冷戦構造崩壊、湾岸戦争後の新しい世界秩序の中での軍備管理や安全保障を討議。海部首相が武器移転の国連報告制度と移転データを処理する国連データベース・システムの確立を提唱
1991/5/28
茨城県東海村の東海事業所プルトニウム第3開発室で、燃料ペレット仕上げ検査中の2人が被曝
1991/5/28
第2回国連軍縮京都会議2日目。北朝鮮の李勇虎軍縮課長が朝鮮半島の非核化構想を表明。韓国代表は「まず核査察を受け入れるべき」と反論
1991/5/29
仏国防省が「南太平洋ファンガタウファ環礁で核実験を行った」と発表
1991/5/29
原爆死没者に弔意を表すため国が設置した「原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会」(11人)が厚生省で初会合。座長に森亘・元東京大学長を決める
1991/5/30
平岡広島市長が仏核実験に抗議文
1991/5/-- 
広島市の原爆資料館にある「人影の石」の影が薄くなり、本格的な保存法の検討始まる
1991/5/-- 
原水禁国民会議が世界の核被害者の国際ネットワーク「世界核被害者同盟」(仮称)設立を決め、8月の原水禁世界大会で提案へ
1991/5/-- 
広島市の原爆供養塔納骨名簿に名前と校名が載りながら無縁仏になっていた臼井昭子さんの身元が、母校の広島女学院中・高校の被爆記録映画作りで判明、46年ぶりに肉親の元に戻る。名簿誤記が原因。いきさつを収録した映画「夏雲」が6月1日公開へ
1991/5/-- 
ソ連セミパラチンスク核実験場周辺で、住民の免疫機能に異常が出ていたことが現地のカザフ共和国パブロダール臨床疫学センターの調査などで判明。子供の貧血も多発。6月2日の第32回原爆後障害研究会で発表へ
1991/5/-- 
広島市の原爆資料館の1990年度入館者が150万4,618人と2年連続150万人台を記録。修学旅行で訪れた学校は3,900校と過去最多

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