『生きて』 日本被団協代表委員 坪井直さん <1> ヒロシマの顔
13年1月22日
生き残った「恩返し」に
核兵器廃絶を国内外で訴え続ける坪井直(すなお)さん(87)=広島市西区。被爆者運動に関わり始めたのは、中学校長を退職後、広島県被団協の事務局次長になった1993年から。2004年には理事長に就いた。00年からは日本被団協の代表委員も務め、今や「ヒロシマの顔」となった。20歳の時に遭った原爆で死のふちをさまよいながら、人々の助けによって生きながらえた命。平和への闘いは生き残った者の恩返しでもある。
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私は、爆心地から約1・2キロで被爆し、9月25日まで意識が戻らなかった。じゃが、こうして生きとるんです。被爆して歩けんようになった時、友人が似島(現南区)の臨時野戦病院まで連れて行ってくれた。おふくろは、あふれるほどの被爆者の中から、意識がほとんどなかった私を捜し出してくれたんです。
放射線の影響で造血機能が破壊され、3回も危篤になった。その時も教員仲間が輸血を買って出てくれたんですよ。みんなに支えられたからこそ助かった。そう思うと、じっとしておられんのです。生涯をかけて恩返しがしたい。休みが多くて体に負担がかからんと思って教員になったが、次第に恩返しの気持ちに変わり、退職後は被爆者の助けになりたいと思ったんです。
被爆体験の証言を年に60~70回こなす。県被団協の事務所(中区)に、ほぼ毎日顔を出す。東京にも、原爆症認定制度の検討会や日本被団協の会議に出るため、毎月通う
元気そうに見えるんでしょう。私のことを「化けもん」と言う人がおる。でも、貧血で2週間に1回は点滴を受けとるんですよ。そうせんと生きられないんです。それが原爆の怖いところ。大腸と前立腺の二つのがんとも闘っています。心臓病もあって、薬の「ニトロ」が手放せません。被爆から67年たっても体中のやけどの痕は消えません。私は傷だらけじゃが、まだまだ現役です。
直という名は、真っすぐに生きろと両親が付けてくれた。戦争も駄目、核兵器も駄目、テロも駄目、殺人も駄目。人の命が一番大事。平和へ向かって一直線に行動し続けます。(この連載は、ヒロシマ平和メディアセンター・増田咲子が担当します)
(2013年1月16日朝刊掲載)