マルレを焼いた日 少年兵たちの「本土決戦」 <下> 軍用列車、西へ
11年8月18日
「死ぬはずが…」 出撃せず
1945(昭和20)年7月、宇品線宇品駅(広島市南区)。陸軍船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)2期の勝矢雅治(84)=同市佐伯区海老園=は両親の無言の見送りを受け、行き先不明の軍用列車に乗る。「実家の米穀店の得意先に船舶司令部の将校がいて、両親に教えてくれた。内緒です。行進してホームへ入る間に顔を合わせただけ」
松原の穴に隠す
勝矢は幸ノ浦(江田島市)で海上挺進(ていしん)隊特設52戦隊に編入され、福岡県深江村(糸島市)に移駐した。水上特攻艇「四式連絡艇(㋹)」も同じ列車に積載され、村では大入の松原に穴を掘って隠した。玄界灘を望む砂浜は今も松原が残り、民俗行事「大入盆綱引き」が毎年8月15日、住民総出で行われる土地柄だ。
糸島市二丈福井の農業鬼嶋(きしま)武司(78)は「船の上げ下げ」の訓練、「立ったように船が走る」訓練を記憶する。当時は国民学校児童。講堂や裁縫室が兵舎に使われ、「兵隊さんは憧れだったなあ」。しかし敗戦後、㋹は焼かれた。自暴自棄になった将兵が軍刀で松に斬りつける姿も見た。
福岡市早良区賀茂の元教員青山(旧姓庄嶋)順子(72)は実家が深江村。小隊長と船舶特幹2期の二人を当時泊めた。「戦後50年の年に再会し、お二人は『死ぬはずが生きて帰れた』と喜んでいた。私が六つの時、お二人は16歳か17歳でした」
1945年7月以降、海上挺進隊は九州各地に10戦隊、和歌山県と高知県に各1戦隊配備された。いよいよ「本土決戦」へ、その編成は急だった。
海上挺進隊34戦隊の兵員は宇品駅から軍用列車で移動し、福岡県折尾町(北九州市八幡西区)の折尾駅に降り立つ。近くの国民学校で仮泊し、玄界灘の脇田(わいた)海岸に駐屯した。同駅は大正期の洋風建築が現存し、高架橋はれんがアーチ。町を流れる堀川運河は工都北九州の深奥部・洞海湾から若松港につながる。
船舶特幹2期生の元教員長原誠(82)=呉市上長迫町=は「特攻隊だと分かると空襲で狙われるので『特別漁労班』と自称しましたね」と証言。実際に魚を釣ったり、サザエを採ったりしたという。
自決覚悟し帰隊
同じ2期生の元防衛事務官門田聰(82)=浜田市日脚町=は「㋹は十数隻あったようだが、よく故障し、整備が仕事でした」と回想。見習士官の森山正治(88)=雲南市大東町西阿用=は洞海湾から脇田へ㋹を回航中に故障し、海軍掃海艇にえい航された記憶がある。
森山はその後、出撃に備えて同湾で秘匿場所を探索中、八幡大空襲に遭い、危うく難を逃れた。そして終戦。「全員自決か…」と覚悟して外泊先から脇田に帰隊したが、何事もなかった。「あとは折尾で『兵隊さん遊ぼう』と寄ってくる子どもの相手ですわ」と笑う。㋹は焼却・海没処分の運命をたどったのだろう。それは見届けていない。
特設52戦隊の勝矢は9月復員。連合国軍への書類の作成など船舶司令部の残務整理を終え、宇品から舟入川口町(広島市中区)の実家に帰る。両親は無事だったが、兄ら親族4人が原爆の犠牲になっていた。戦後は食糧営団の仕事を経て、好きな喫茶店を長く営んだ。
34戦隊の吉見義明(83)=西区東観音町=は母親を原爆で失う。戦後は父親を手伝い、家業の石材業をこつこつ営んだ。 「死ぬはずの者が今も生きて、そうでない者が…」。取材中、一瞬、陽気な勝矢が言葉に詰まる。焙煎(ばいせん)コーヒーの残り香は平穏な今の日々の証しだった。=文中敬称略(佐田尾信作)
(2011年8月18日朝刊掲載)