マルレを焼いた日 少年兵たちの「本土決戦」 <上> 特幹の島
11年8月18日
座学・小銃…「勝てるのか」
「夜は少し派手な食事が出たかな」。1945(昭和20)年8月15日。広島市佐伯区海老園の元喫茶店主、勝矢雅治(84)は九州・唐津湾の白砂青松の浜、現在の福岡県糸島市二丈にいた。 19歳の陸軍船舶兵。船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)の2期生で、当時は海上挺進(ていしん)隊特設52戦隊に配属。「本土決戦」に備えた水上特攻艇、秘匿名「四式連絡艇(㋹)」の要員だった。
玉音放送聞けず
玉音放送を聞いたが、ラジオの調子が悪い。なお一層軍務に励むべしと皆が受け止め、その夜は気勢を上げた。翌日、司令部から終戦の通達があったが、上官は「敵艦が来たらわれわれは戦う」と息巻いた。「㋹に一応爆雷を装着し、出撃準備をしたんですが…」
数日後、武装解除。駐屯していた国民学校の校庭で爆雷やエンジンを外して並べ、約50隻の船体は海上で焼いて沈めた。「船体はベニヤ板で、すぐ燃えましたね。ほっとした気持ち、情けない気持ち、両方でした」。命令で私物も焼き捨てた。持ち帰ったのは、郷里の広島で寄せ書きしてもらった日の丸や軍隊手帳などわずかな品だった。
船舶特幹―。それは太平洋戦争末期、「本土決戦」に備えて旧陸軍が募集した15歳から20歳までの少年兵たち。彼ら約8千人は1944年と1945年、4期にわたって試験で採用され、香川県小豆島などで訓練を受けた。
広島市西区井口鈴が台の元警察官植村重利(85)は堺市で生まれて警察官住宅で育ち、四条畷中学(現大阪府立四条畷高)在学中の1944年9月、2期生で入隊。「恥ずかしながら、早く軍隊に入れば早く階級が上がると思い…」。警察官も次々召集される時代だった。
宇野港(玉野市)から輸送船で小豆島の兵営へ。神社の玉砂利の上の正座はつらかったが、配属された区隊の区隊長や班長は温情家だった。「差し入れが禁じられていた面会日、たまたま母が持参した巻きずしを懐からぽろりと落とした。班長は見て見ないふり。班の全員で食べたよ」
呉市阿賀中央の元会社社長長(ちょう)成連(85)の印象は少し違う。府中中学(現広島県立府中高)から同じ1944年9月、2期生で入隊。真冬に大発(上陸用舟艇)を浜から下ろす訓練に震え、船底にたまった水を毎朝くみ出す作業で手が腫れ上がった。「つらい思い出ばかり」
慕われた上官も
軍人たちは年端もいかない少年たちに「貴様らは…」と訓示し、戦地でもないのに「カエルを食え」と叫ぶ。「もっとも別の区隊では分隊長が夜、寝ている隊員の口におはぎを入れて歩いた、なんて話もあります。戦後も慕われた上官はいたね」。お遍路の土地柄だけに町の人からにぎり飯の差し入れもあった。
勝矢は広島二中(現観音高)から2期生で入隊。同じように精神訓話を聞かされたが、㋹はエンジンの座学だけで、武器も25人の班で明治以来の三八式歩兵銃が10丁ほど。二中の軍事教練以下だった。「これで勝てるのだろうか」。むろん口にはできなかった。
兵舎があった小豆島の東洋紡渕崎工場(土庄町)は今は更地で、木造の東洋紡記念館と特幹の別名「若潮部隊」にちなんだ跡地の碑が残るだけ。近くの富丘八幡神社の石段の上には「若潮の塔」、傍らに海中でさび付いた㋹のエンジンが墓標のようにたたずんでいた。
◇
かつてこの国の指導者はベニヤ板の船の「特攻」に若者を駆り立て、フィリピンや沖縄の激戦地で多大な犠牲を強いた。敗色濃くなると「本土決戦」にも投じたが、出撃の日は来なかった。瀬戸内海から九州へ、陸軍水上特攻艇の要員として終戦を迎えた元少年たちの証言―。=文中敬称略(佐田尾信作)
(2011年8月16日朝刊掲載)