×

連載・特集

語り始める 語り継ぐ ’09夏 <5> 2人の遺影

■記者 東海右佐衛門直柄

妹よ級友よ「頑張るね」 託された写真に誓う

 体験を語る前、2枚の写真をかばんから取り出した。「えっちゃん、あさちゃん。頑張るからね」。ともにおかっぱ髪の2人が見守ってくれる気がする。

 広島市安佐南区の塩冶(えんや)節子さん(69)。「えっちゃん」は妹悦子さんだ。64年前、5歳と2歳の姉妹は爆心地から1.6キロの段原町(現南区比治山町)の自宅で被爆。縁側にいた母が、全壊した家屋から2人と祖母を助けだした。戦後は広島県坂町にあった父の勤務先の社宅で暮らした。

 7年後、えっちゃんは運動が得意な小学3年生に。よくリレーの練習をしていた。でも原爆の日が迫る夏、急に顔色が悪くなり、体力が衰えた。

 9月下旬、塩冶さんは寝込んでいた妹に声を掛けて家を出た。か細く「いってらっしゃい」と答えてくれた。学校から帰ると冷たくなっていた。土間に突っ伏して泣いた。

 もう一人のおかっぱ「あさちゃん」は同級生の片岡朝子さん。やはり被爆した後、家族で坂町に住んでいた。小学1年では仲良く遊んだのに、2年で急死した。「クレヨンみたいに固まった血を吐いた」と聞いた。妹より5年前のことだった。

 「原爆の子の像」建立の契機となる佐々木禎子さんが白血病で12歳の生涯を閉じたのも被爆10年後。同世代、同時代の相次ぐ悲報に塩冶さんは「ピカにあった子が急に死ぬ。原爆のせいではないか」と思ったという。

 歳月は流れ、約20年前。特別支援学校の教諭となった塩冶さんは広島市内で突然、声をかけられた。「せっちゃんじゃない?」

 朝子さんの母親だった。坂町の自宅に招かれ、手料理をごちそうになり、手芸を教わった。しばらくして1枚の写真を手渡された。「朝子のこと、忘れないで」。幼いころの写真は原爆で焼け、手元に残っていた入学式の写真を引き伸ばしたという。妹の遺影と一緒に、大切に保管した。

 写真の意味に気付いたのは退職から6年後の2005年という。かつての同僚の依頼を断れず、初めて修学旅行生に証言したのがきっかけだった。

 それまで、幼時の被爆で記憶が鮮明でないため、自分には語る資格がないと口をつぐんできた。でも子どもたちに写真を見せ、2人について話すと、みんな静まりかえる。まなざしが真剣になる。

 写真を託した朝子さんの母親の気持ちも思う。手料理をつくり一緒に手芸をしたのは、亡き娘と自分を重ねていたのではないか。

 修学旅行生にこう語りかける。「戦争とは友達が突然いなくなること。写真1枚しか残せず、親をずっと悲しませること」

 夫は先に逝った。母も昨年亡くなり、家族で被爆を経験したのは自分だけに。だからこそ「語り継ぐ」。遺影の2人への誓いが、いっそう強まる。

(2009年7月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ