『私の師』 広島平和文化センター理事長 スティーブン・リーパーさん
12年8月6日
対立解決への道しるべ
コンサルタントの仕事で日本を訪れ、友達に会うため広島に来た時にキリスト教青年会(YMCA)に寄ったら英語の先生をしてほしい、と頼まれた。それで広島に暮らし始めたのが1985年。最初は平和活動をする気は全然なかった。
原爆資料館(広島市中区)の展示の翻訳をしたり、知人に頼まれて何となく座り込みに参加したりしたことはあった。活動のきっかけをくれたのは平和活動家の森滝春子さん。インドとパキスタンが核実験をした98年、両国から活動家を広島に呼んで、いろいろ話をしてもらった。その通訳や翻訳をしていた。
その時、広島の人がインド、パキスタンに行けたらいい、と森滝さんに言ったら「それはいい」というので、「グローバル・ピース・メーカーズ・アソシエーション」という市民団体をつくった。英語で平和や核について話せるようトレーニングして両国に送る、という活動を始めた。
森滝さんに会って、(原水禁運動の先頭に立った)お父さんの市郎さんにも興味が湧いた。本に書いていた「人間は破壊的競争によって紛争を解決できなくなった」「原爆は、力の文明の終わり、愛の文明の始まり」との言葉が印象的だった。人を支配しようとする戦争文化から協調する平和文化へ―。小さいころから母に本を読んでもらっていたガンジーと通じるものがあった。この哲学を広めたいと思うようになった。
そして、僕に二つのチャンスをくれたのが前の広島市長の秋葉忠利さん。2001年末、僕が米国のアトランタに戻る時、送別会に参加していて、「平和市長会議が国連で活躍できるように手伝ってほしい」と言われた。それまで特に親しいわけではなかったから、びっくりした。
国連に行って分かったのは、いろんな非政府組織(NGO)が活発に動いていること。月1、2回行って大事なミーティングに参加して、そのNGOの仲間に入れば、いろいろな情報が得られる。
02年に平和市長会議の米国代表になり、国連によく行くようになった。広島だけの反核の世界だった平和市長会議が、世界的な反核の世界に入れた。その時知り合った人たちも素晴らしかった。国連では、国のトップレベルの人も核に反対しているから何とかなるんじゃないかと思った。
二つ目は、ここ広島平和文化センターの理事長に任命されたこと。グローバルな反核運動ができている。
僕はもともとコンサルタントだったから、自分から何かしようとは思っていない。ほかの人を手伝い、対立を解決するのが仕事。今はヒロシマのコンサルタント。平和を求めるヒロシマの訴えが世界に広がり、暴力を使わずに対立を解決できるように動いていきたい。(聞き手は二井理江)
スティーブン・リーパー
1947年、米国オハイオ州生まれ。フロリダ州にあるエッカード大(実験心理学)を経てウエストジョージア大臨床心理学修士課程修了。85年広島YMCA英語講師、86年翻訳・コンサルタント会社設立。2002年平和市長会議米国代表、03年広島平和文化センター専門委員を経て07年4月から現職。64歳。父ディーン・リーパーさんは青函連絡船「洞爺丸」沈没事故(54年)で自分の救命胴衣を他の乗船客に譲って亡くなったことで知られる。
(2012年8月6日朝刊掲載)