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社説・コラム

『私の師』 平和活動家 森滝春子さん

■聞き手 森田裕美

私欲を捨て「反核」貫く  最近、被爆者として原水禁運動の先頭に立った父・森滝市郎(1994年死去)が書き残した文章に、あらためて目を通している。

 核を頂点とする「力の文明から愛の文明へ」「核文明から非核文明へ」。人類が生存するためには、価値観の大転換が必要―。哲学者でもある父の言葉は、福島第1原発で起こっている最悪の事態を前に、重みを増しているように思う。

 「森滝市郎の娘」との言葉がついて回るのには正直、抵抗がある。反発ではない。父にはとても及ばない、おこがましいとの思いから。人間として本当に尊敬できた。裏表のない、まっすぐな性格。私も運動家の端くれとして人間関係や組織運営の難しさはよく分かるが、父は家でも決して人の悪口を言わなかった。戦時中、軍国主義教育を進めた後悔から、私利私欲を捨て、反核への思いをただいちずに貫いた父は、やはり師であり、目標だ。

 忘れられない思い出がある。小学生のころ遊んでいた川で小さな小さなお骨を見つけた。子どもの私にも原爆で亡くなった赤ちゃんの頭蓋骨と分かり、持ち帰って父に見せた。父はその骨を抱いてひどく泣いた。毎年8月6日にも父が声を震わせて泣く姿をよく見た。

 そんな姿を見て育ち、何かの自覚があったのだろうか。経緯は覚えていないが、広島大付属高1年の時、言い出しっぺとなって校内に「原爆資料紹介の会」を結成した。被爆体験を風化させまいと聞き取りを続け、ガリ版刷りの本を発行した。同じころ開かれた第1回原水禁世界大会では、現地実行委員長だった父にくっついて私も会場に出入りした。原水爆禁止を願って押し寄せる人の波や、舞台袖で聞いた「生きていてよかった」という被爆者の痛切な声は、今も私の反核活動の原動力だ。

 じっとしておられず、すぐ行動に移すところも父の影響かも。父が「平和利用」も含め「核絶対否定」を貫き通した背景には、じかに触れた世界の核被害者がいる。それは私も同じだ。

 15年前、がんで勤めていた学校を退職後、核を持って対立するインド・パキスタンの実情を知り、いてもたってもおられず、核戦争の実情を伝えに被爆者たちと現地を訪れた。インドの核開発の源であるウラン鉱山や、米軍による劣化ウラン弾の被害を受けたイラクも調査に行った。

 人間の力で制御しきれない核は、軍事利用も平和利用もない。表裏一体の問題ととらえ今こそ被爆地から具体的な動きにせねばと思っている。父の「核と人類は共存できない」という言葉は、決して譲れない。

もりたき・はるこ
 1939年、広島市生まれ。原爆投下直前に広島県君田村(現三次市)に疎開し、被爆を免れる。広島大付属中高、広島大教育学部を卒業後、県内の公立中に行政職員として勤務。1996年に退職後、インド・パキスタンの青少年を被爆地に招くなど市民レベルの平和活動を本格化。核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表、核兵器廃絶日本市民NGO連絡会共同代表、ウラン兵器禁止国際連合(ICBUW)運営委員など国内外で活動を続ける。72歳。

(2011年5月23日朝刊掲載)

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