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社説・コラム

大江健三郎さん 「ヒロシマ」を語る

■編集委員 西本雅実

 作家大江健三郎さん(75)は、人間に落とされた原爆による惨禍と、人間の再生を自らの生き方に引きつけて考え、表現してきた。広島市中区で2日あったシリーズ講座「広島の平和思想を伝える」(市・広島平和文化センター主催)で講演したのを機に、東京都世田谷区の自宅で5日インタビューに応じた。核兵器という究極的な暴力が存在し拡散する世界に、私たち一人一人はどう立ち向かいうるのか―。3時間余に及んで語った内容をまとめ伝える。


16歳での出会い 原民喜の短編が出発点

 生きていくうえで立ち返る「根拠地」と表す被爆地広島を初めて訪れたのは、日米安保条約の改定で列島が揺れた1960年。8月6日の平和記念式典に参列し、地元の作家らと交流した。広島とのそもそもの出会いは原民喜が残した短編からだった

 読書ノートをこの前整理して思い出しました。広島が大切な場所と意識したのは16歳の時です。村(生まれた愛媛県大瀬村、現内子町)で軍国主義を信じていた子どもが、戦後を迎え、やりたいことが自由にできる、民主主義はいいと思った。母や兄の理解で転校した松山東高で、伊丹君(映画監督・俳優の故伊丹十三さん。大江さんの妻ゆかりさんの兄)と友人となり、文学のことも随分教えてもらった。彼が、広島で原爆に遭った作家が自殺したと言った。

 僕は、原爆のことを少しは知っていたけれど、作家が自殺してしまうほどの苦しみが続いているのかと驚いた。作品を読みたいと思ったが、コッペパンが昼ご飯の僕には文芸誌は高く感じられた。伊丹君が「図書館にあるぜ」と教えてくれ、「群像」(1951年5月号)に掲載された「心願の国」を読んだ。

 「破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかって…。/だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて」。この言葉に感動しました。また、「我々は、自らを高めようとする抑圧することのできない本能を持っている」とパンセの言葉を引いていた。

 よし、この人の作品をもっと読もう、大学に進んでパスカルを勉強しよう、そのころ著作を読んだ渡辺一夫さん(フランス文学者。東京大教授)に習おうと思った。入学してサルトルなども読み、書いた「奇妙な仕事」が大学新聞に載って僕は作家となるのですが、子どものころの思い出を書いた習作がたくさんある。神社の境内でアリを殺して不思議な気持ちになる話です。原民喜に影響されて書いていたんだと読書ノートを繰って思い出した。

 自分が世界をどう考えているのか、その根本には原爆を受けた苦しみがありながら「静かな泉」がわくことを希求する。あ、これが文学だと思った16歳の少年から75歳の老人になった今も「心願の国」、原民喜さんは僕の文学の出発点だと思います。


屈服しない人々 教わった生き方のモデル

 1965年に出版した「ヒロシマ・ノート」は、「いかなる状況においても屈服しない」人々を「正統的な原爆後の日本人」と呼んだ。2日の講演では「私が『ヒロシマ以後』に学んだこと」と題し、広島原爆病院の初代院長を務めた重藤文夫さん(1982年死去)らとの対話から培ってきた考えを述べた

 本のプロローグに書いたように、生まれた息子の頭に障害があり、僕は打ちひしがれて広島へ向かった。あの年の(1963年8月の第9回)原水禁世界大会は、いかなる国の核実験にも反対するかどうかでソ連と中国の代表団が対立し、日本人参加者の間でも実にいろんなことが起こった。それを「平和運動家の宗教戦争」と言ったのが、言葉を明確にするジャーナリストの金井利博さん(元中国新聞論説主幹。1974年死去)でした。

 金井さんが(1964年の原爆被災三県連絡会議で)述べた、「原爆は威力として知られたか 人間的悲惨として知られたか」は今も一番正しい定義だと思う。核兵器を威力でなく人間にもたらす悲惨としてとらえ、考える。日本の進む方向性がそこにあると思い、金井さんが提唱した原爆被災白書の作成運動にも賛同したわけです。

 重藤先生は被爆したその日から治療に当たられた。資料も統計もない中で放射線障害と白血病の関係にいち早く気づき、若い医師(故山脇卓壮さん)を励まして調べ、関係を結びつけた。原爆症を発見したといっていい。それは先生が若いころにエックス線の機械修理からネズミに放射線をかける研究に取り組んだからです。

 しかし、先生はこういうえらいことをしてきたとは話されない。一緒に「対話 原爆後の人間」(1971年刊)を出した時も、先生は「不思議な経験が役に立った」「偶然のような気がする」と言われる。講演では時間が足らず言えなかったが、僕は若い人にこのことを伝えたかった。  今やっていることを真剣に取り組み、しっかり理解する。それを自分のモノにする。そうした勉強や積み重ねを現実の問題と結びつければ、立派な大きな仕事ができる。

 僕は人間はそのように生きるものだということを広島で学んだ。原爆で苦しみながら屈することなく、自らを恢復(かいふく)させ、仕事を成し遂げる。重藤先生をはじめ「無名戦士」とでも呼ぶべき人たちに何人も出会った。若い父親としての自分自身が立ちなおるきっかけを得た。息子の光とどう生きていくのかを重ねた。広島を考えることが生きていく、また、僕の文学の根拠地ともなった。人間のモデルに立ち返って考えて書き、一つのモデルを示すということです。

 「ヒロシマ・ノート」は若い作家が言葉をつくり出した表現がある。それは僕の表現の問題であって、被爆者を「聖人化」しているとの見方は違うと思います。あの本が86刷になったとの連絡がきょうありました。初版そのままの形で発行され、英語、フランス語、2年前にはイタリア語訳も出た。こんなに長く読み継がれる現役の本は僕にとっては唯一といっていいでしょう。(発行元の岩波書店によると累計は約81万部に達した)


核廃絶のその日 険しいが希望持ち信じる

 東西冷戦が90年代に終結した後も、核兵器はなくなるどころか拡散している。2007年に新版が出た「核時代の想像力」は、1968年に都内で行った連続講演に「限りなく終わりに近い道半ばのエピローグ」を書き加えた。小型の核兵器を使うテロリストが登場する危険性をエピローグで言及している

 「9・11」(2001年)以降の世界は、米国に始まる核体制、金井利博さんの言葉でいえば「核権力」に潜む落とし穴が広がっています。テロリストが乗じて使う危険性がある。事故もありうる。

 オバマ大統領が就任間もない昨年4月にプラハで「核なき世界」を唱えたのは、核体制を支えたキッシンジャー(元米国務長官)や英国の高官らが「廃絶」を言いだしたのも、冷厳に見えるが決してそうではないリアル・ポリティックス(現実政治)が追いつめられ、動かざるを得なくなった。自分たちが持つ武力が逆にあぶなくなり、彼らが信奉する核の有効性が通用しなくなったとみているからです。

 彼らは国家を管理し、核の威力を持つ側から「廃絶」を考え始めた。核は人間に悲惨をもたらす、と言い続けてきた被爆者や私たちの考えに立つものではない。出発点は違うが、それでもいいんです。人間を滅ぼす核兵器は廃絶するしかないのですから。

 廃絶に向かって、日本は非核三原則を徹底する。法制化して沖縄を核の中継地にさせない、米軍基地そのものの撤去も法律の問題として求める。日米安保条約を廃棄することになるが経済条約などを結べばいい。廃棄はアジアの安定を損なうという意見があるが、米国の核を認めながら他国の核を脅威とする態度ではアジアの安定は確実なものにならない。広島発の新たな国民運動が要ります。

 地球規模で廃絶するプログラムをつくる道のりは険しい。核保有国間にもあり、すべての国の間の不平等をどう克服していくのか。テロで使われることがないよう国連が厳密な体制をとれるのか。あと10年で廃絶できるという人がいるとしたら、僕は「本当ですか」と問いたい。年代を区切る勇気は僕にはない。だが、もし30年後だとしたら原爆投下から100年近くですよ。それでは人間の可能性に対する侮辱です。

 パレスチナ問題に亡き友人のエドワード・サイード(批評家)は意思として楽観主義をとった。人間のすることだからと僕も核廃絶に希望を持ちます。実現を信じていると言っていい。原爆で死んでいった者たちを裏切らない、人間の普遍の問題として考え、核廃絶に向かって生きる。ステレオタイプ化された、「ヒロシマの心」という言葉が持つ本来の意味と力を恢復させることでもあります。


平和思想と行動 人間として考え伝える

 広島での大江さんの講演を聞いた学生からは「同世代をみても思想を感じない」「署名が平和につながるだろうか」と、被爆の記憶を受け継ぐ難しさ、核兵器廃絶への手触り感のなさを表す質問が出た。平和思想と行動とは何か。あらためてぶつけてみた

 核時代「ゼロ年」である1945年8月6日に立ち返り、考えることです。被爆者援護は少しずつ実現してきたが、原爆症の認定は65年をすぎても進んでいません。世界を破滅させる核兵器は現に存在している。被爆に苦しむ人の救済と核兵器をなくすことは根本的に新鮮なテーマであり、人間の問題として続いています。

 若い人が広島・長崎と出会うなら、井上ひさしさんの戯曲「父と暮せば」を見る、林京子さんの「空罐」を読む。さらに井伏鱒二さんの「黒い雨」を読んだり、被爆者の話を実際に聞いたりする。自分の、子どもの、人間の未来を考えるでしょう。殺す側には決して立たない。

 人間として生きていくというのはどういうことなのか、自分はこんなふうに生きたいと考えるのが思想であり、出発点です。自分には思想がないと考えた瞬間にも思想は展開している。広がりを見せています。

 今回のシリーズ講座のタイトルを、僕が名付けるなら「私の中の広島の平和思想をあなたに伝える」としますね。考えたことをあなたという誰か一人に伝えたいのが表現活動の根本ですから。若い人たちが広島の長崎の沖縄の問題を自らのよって立つ点と結びつけ、どう生きていくのかを考える。誰か一人のあなたに伝える。それはまさに平和思想です。

 僕は「広島と核状況を小説にする」と何度も言い、「後期の仕事」と呼んだ作品でも隠れた主題にはしたが、広島が中心の作品は書き終えることができなかった。「父と暮せば」のフランス語訳を読んでいたところですが、井上ひさしさんは偉大です。広島について亡くなる前にきちんと書いた。

 作家としては憂うつな気持ちで晩年を過ごしています。僕の書いたり、言ったりしたことが核兵器の廃絶にリアルな役割を果たさなかった者として死んでいくんだ、と思っています。しかし、大事な広島の問題を考えることはやめなかった。

 16歳の時に読んだ「心願の国」が生きる点として胸に突き刺さり、大学で渡辺先生の点に、広島で重藤先生や金井さんの点に、やがてサイードの点とも結びついた。そうした人たちに囲まれた中に自分そのものという人間がいるんだと思う。

 知的障害のある光は、医師から大きな発展はないと言れたが、彼は譲りがたい自分自身をいつの間にかつくっていった。それを言葉ではなく音楽で表現している。人間はパスカルがいうように「自らを高めようとする本能」を持つ。生きることは同じ平面を歩くのではなく上に向かっていくことだと思いますね。

おおえ・けんざぶろう
 1935年、愛媛県生まれ。東京大仏文学科在学中の1958年に「飼育」で芥川賞。「個人的な体験」「万延元年のフットボール」「懐かしい年への手紙」などの作品で、「現代における人間の様相を衝撃的に描いた」と1994年にノーベル文学賞。「さようなら、私の本よ!」などに続いて昨年末、大戦中に亡くなった父の時代精神を四国の森で探る「水死」を出版。

(2010年10月10日朝刊掲載)

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