[核なき世界への鍵] マーシャルの訴え エニウェトク環礁 懸念なお
17年2月14日
中部太平洋の島国、マーシャル諸島にあるエニウェトク環礁は、米国による44回の核実験が実施された。日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の被曝(ひばく)で知られるビキニ環礁での23回より多く、爆発規模の総量は約3万2千キロトン、広島原爆(16キロトン)の約2千発分に上る。一連の実験で生じた汚染土などを投棄した「ルニットドーム」は劣化が進み、放射性物質の海洋流出が懸念されている。(明知隼二)
劣化 汚染水流出の恐れ
南北に長いルニット島の北端に「ルニットドーム」はある。1958年の核実験「カクタス」でできたクレーター(直径106メートル、最深部9・5メートル)に、米国が77年から約40島で進めた除染作業に伴う汚染土8万3千立方メートルや、がれき4700立方メートルをセメントと混ぜて投棄。厚さ約45センチのコンクリートパネル357枚で覆い、79年に完成した。
今、コンクリートは、ひび割れや剝離が目立つ。表面には植物のつるが広がりパネルのつなぎ目に根を張っている。「僕はドームに行ったことはない。怖いんだ」。ルニット島の南約20キロにあるエニウェトク島で働くマディソン・ジュダさん(26)は言う。ドームの一帯は漁や銅線の採掘で日常的に訪れる人がいる一方、「墓場(トゥーム)」として恐れられている。
米国は、オバマ政権下の2013年からドームの劣化状況などを調べている。同年の報告書ではコンクリートの機能に問題はないと強調したものの、ドーム内部では潮の干満による水位の上下があることを確認。「汚染水が流出している可能性がある」と指摘した。
汚染土などの処分方法を検討した75年の報告書では、クレーター底面への防水加工などが挙がったが、結局、コストの安い直接投棄を提言。流出はドーム建造時から想定されていた。
75年の報告書は「漏出による汚水の増加はわずかで、(核爆発に伴う)環礁の海底の沈殿物よりもはるかに汚染度は低い」。13年の報告書もこの見方に立って「汚染水は海水で直ちに薄められる。中身が全て流出しても住民に影響はない」と付言している。
「気候変動の影響で、波による海岸の浸食も進んでいる。住民は中身が流れ出さないか心配している」と地元のエニウェトク自治体のジャクソン・アディング首長(56)は言う。「米国は核のごみを自国に持って帰りたくないだけだ。なぜ私たちが、米国の核実験の重荷を担い続けなければいけないのか」
米国はエニウェトク環礁での除染事業をマーシャル諸島での成功事例と位置付ける。しかし、サンゴ礁の島に立つ異様なルニットドームが、その矛盾を告発し続けている。
故郷 今も帰れない
首都マジュロから北西に約1100キロのエニウェトク環礁は、世界的な反核運動のきっかけとなった水爆実験「ブラボー」があったビキニ環礁に比べ、被害がよく知られていない。
「エニウェトク環礁北部のゆかりの人たちは、故郷に帰れないままだ」。エニウェトク島に住むモレス・アブラハムさん(36)は嘆く。祖父は北部最大のエンジェビ島の伝統的首長。島民を舟に乗せて漁に連れ出すなど、共同体の世話役を担っていたという。
44回の実験は主に環礁北部や東部で実施。最大の水爆実験「マイク」の爆心地だったエルゲラップ島など複数の島が消滅した。米国は汚染度の高かった北部に住むリスクを踏まえ、帰島先を南部のエニウェトク、メドレン、ジャプタンの3島に限定した。
アブラハムさんは2011年、祖父の舟「エルモグリック」の名を冠した非政府組織(NGO)を設立。島外の資金を募って飲料水タンクを購入するなど、島民の支援に取り組む。「祖父の舟は、かつてエンジェビ島にあった助け合いの象徴なんだ」
住民は実験のため1947~80年、南西約200キロのウジェラン環礁への移住を強いられた。同環礁はエニウェトク環礁より狭く、食糧が乏しかった。ヨシコ・ルークさん(79)は「いつも飢餓状態で、食べられる物は何でも食べた」と当時の辛苦を振り返る。
帰島先はエニウェトク環礁の南部3島に限られたが、80年を境に住民は順次戻った。ただ、移住先で生まれた人も少なくない。ウジェラン生まれのリメヨ・リトムタさん(65)は「生まれ育った場所が恋しい」とも。核超大国に振り回された住民の思いは複雑だ。
悲劇は核実験だけではない。第2次世界大戦中には、エニウェトク環礁は地上戦も経験した。一時、環礁を占領した日本軍の拠点に対し、米軍は44年、上陸作戦を展開。メドレン島にいたタカジ・アイザックさん(79)は、家族と地下壕(ごう)に逃れた。「銃声や爆発音がやみ、地上に出ると、両軍の兵士が倒れていた。曽祖母も逃げ遅れてしまった」。島は焼け野原と化し、日本兵2677人と米兵195人が死亡。住民も少なくとも18人が命を落とした。
完全な除染を
2014年、当時のロヤック大統領の随行で広島市を訪れた。核兵器で街が壊滅し、子どもたちが焼かれたと知り、恐怖と悲しみを同時に感じた。広島、長崎への原爆投下の後も、米国はさらに核兵器を製造するため、マーシャル諸島での実験を始めた。
エニウェトク環礁の住民は元実験場に戻って暮らし続けているが、実験がもたらした問題が解決したわけではない。除染は不完全で南部の3島にしか住めず、被害への補償も不十分。中でも重荷なのが「ルニットドーム」だ。放射性物質が漏れ出して住民の健康に悪影響を与えないか、いつも気掛かりだ。
ドーム建設について、当時の住民側と形式的な「合意」はあっただろう。しかし、故郷に戻れると言われれば、受け入れる以外の道があっただろうか。核実験場にされたのも含め、本当の意味で合意があったとは思わない。米国は責任を持って完全な除染をし、ドームを撤去すべきだ。
マーシャルの伝統では、沈黙は美徳。でも核実験被害の問題に関しては、より大きな声で訴えていくべきなのだろう。(談)
(2017年2月14日朝刊掲載)
ルニットドーム
劣化 汚染水流出の恐れ
南北に長いルニット島の北端に「ルニットドーム」はある。1958年の核実験「カクタス」でできたクレーター(直径106メートル、最深部9・5メートル)に、米国が77年から約40島で進めた除染作業に伴う汚染土8万3千立方メートルや、がれき4700立方メートルをセメントと混ぜて投棄。厚さ約45センチのコンクリートパネル357枚で覆い、79年に完成した。
今、コンクリートは、ひび割れや剝離が目立つ。表面には植物のつるが広がりパネルのつなぎ目に根を張っている。「僕はドームに行ったことはない。怖いんだ」。ルニット島の南約20キロにあるエニウェトク島で働くマディソン・ジュダさん(26)は言う。ドームの一帯は漁や銅線の採掘で日常的に訪れる人がいる一方、「墓場(トゥーム)」として恐れられている。
米国は、オバマ政権下の2013年からドームの劣化状況などを調べている。同年の報告書ではコンクリートの機能に問題はないと強調したものの、ドーム内部では潮の干満による水位の上下があることを確認。「汚染水が流出している可能性がある」と指摘した。
汚染土などの処分方法を検討した75年の報告書では、クレーター底面への防水加工などが挙がったが、結局、コストの安い直接投棄を提言。流出はドーム建造時から想定されていた。
75年の報告書は「漏出による汚水の増加はわずかで、(核爆発に伴う)環礁の海底の沈殿物よりもはるかに汚染度は低い」。13年の報告書もこの見方に立って「汚染水は海水で直ちに薄められる。中身が全て流出しても住民に影響はない」と付言している。
「気候変動の影響で、波による海岸の浸食も進んでいる。住民は中身が流れ出さないか心配している」と地元のエニウェトク自治体のジャクソン・アディング首長(56)は言う。「米国は核のごみを自国に持って帰りたくないだけだ。なぜ私たちが、米国の核実験の重荷を担い続けなければいけないのか」
米国はエニウェトク環礁での除染事業をマーシャル諸島での成功事例と位置付ける。しかし、サンゴ礁の島に立つ異様なルニットドームが、その矛盾を告発し続けている。
実験44回 複数の島消滅
故郷 今も帰れない
首都マジュロから北西に約1100キロのエニウェトク環礁は、世界的な反核運動のきっかけとなった水爆実験「ブラボー」があったビキニ環礁に比べ、被害がよく知られていない。
「エニウェトク環礁北部のゆかりの人たちは、故郷に帰れないままだ」。エニウェトク島に住むモレス・アブラハムさん(36)は嘆く。祖父は北部最大のエンジェビ島の伝統的首長。島民を舟に乗せて漁に連れ出すなど、共同体の世話役を担っていたという。
44回の実験は主に環礁北部や東部で実施。最大の水爆実験「マイク」の爆心地だったエルゲラップ島など複数の島が消滅した。米国は汚染度の高かった北部に住むリスクを踏まえ、帰島先を南部のエニウェトク、メドレン、ジャプタンの3島に限定した。
アブラハムさんは2011年、祖父の舟「エルモグリック」の名を冠した非政府組織(NGO)を設立。島外の資金を募って飲料水タンクを購入するなど、島民の支援に取り組む。「祖父の舟は、かつてエンジェビ島にあった助け合いの象徴なんだ」
住民は実験のため1947~80年、南西約200キロのウジェラン環礁への移住を強いられた。同環礁はエニウェトク環礁より狭く、食糧が乏しかった。ヨシコ・ルークさん(79)は「いつも飢餓状態で、食べられる物は何でも食べた」と当時の辛苦を振り返る。
帰島先はエニウェトク環礁の南部3島に限られたが、80年を境に住民は順次戻った。ただ、移住先で生まれた人も少なくない。ウジェラン生まれのリメヨ・リトムタさん(65)は「生まれ育った場所が恋しい」とも。核超大国に振り回された住民の思いは複雑だ。
悲劇は核実験だけではない。第2次世界大戦中には、エニウェトク環礁は地上戦も経験した。一時、環礁を占領した日本軍の拠点に対し、米軍は44年、上陸作戦を展開。メドレン島にいたタカジ・アイザックさん(79)は、家族と地下壕(ごう)に逃れた。「銃声や爆発音がやみ、地上に出ると、両軍の兵士が倒れていた。曽祖母も逃げ遅れてしまった」。島は焼け野原と化し、日本兵2677人と米兵195人が死亡。住民も少なくとも18人が命を落とした。
ジャック・アディング上院議員(56) エニウェトク環礁選出
完全な除染を
2014年、当時のロヤック大統領の随行で広島市を訪れた。核兵器で街が壊滅し、子どもたちが焼かれたと知り、恐怖と悲しみを同時に感じた。広島、長崎への原爆投下の後も、米国はさらに核兵器を製造するため、マーシャル諸島での実験を始めた。
エニウェトク環礁の住民は元実験場に戻って暮らし続けているが、実験がもたらした問題が解決したわけではない。除染は不完全で南部の3島にしか住めず、被害への補償も不十分。中でも重荷なのが「ルニットドーム」だ。放射性物質が漏れ出して住民の健康に悪影響を与えないか、いつも気掛かりだ。
ドーム建設について、当時の住民側と形式的な「合意」はあっただろう。しかし、故郷に戻れると言われれば、受け入れる以外の道があっただろうか。核実験場にされたのも含め、本当の意味で合意があったとは思わない。米国は責任を持って完全な除染をし、ドームを撤去すべきだ。
マーシャルの伝統では、沈黙は美徳。でも核実験被害の問題に関しては、より大きな声で訴えていくべきなのだろう。(談)
(2017年2月14日朝刊掲載)