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ヒロシマの記録 消えた「原爆十景」追う
■編集委員 西本雅実
写真は、被爆から2年後の1947年の広島市中心街、後に平和記念公園となる一帯である。この年、今に続く平和記念式典の始まりである第1回平和祭が原爆ドーム対岸の中島地区で行われ、「原爆十景」と名付けた原爆記念物が選ばれた。復興の息吹とともに被爆の実態を残す営みが起きた。
「原爆十景」は、「被害の特殊性を保存し、観光客誘致の一助とする」とうたった。ところが、今は世界遺産でもある原爆ドームは入っていない。なぜなのか。本日付の「ヒロシマの記録」は、被爆建造物保存と継承の出発点であり、消えた「十景」を掘り起こし、知られざる史実を追う。
被爆の実態を残そうとの営みは廃虚からの復興の中で起こった。それを表すのが1947年に広島市が選定した「原爆十景」。今日から見れば、原爆ドームが選ばれず「奇妙」な遺物も入っている。だが、原爆の悲惨さを身をもって体験した市民の思いが投影されていた。また、市の復興顧問だったオーストラリア人が保存を促していた。今は消えた「原爆十景」を甦(よみがえ)らせ、忘れられた史実を解き明かす。
「十景」を、1947年8月11日付の中国新聞は「語り傅(つた)う〝原爆十景〟」との3段見出し記事で報じている。「広島市では原子爆弾による被害の特殊性、興味ある営造物を保存してその威力を後世に残し、あわせて観光客誘致の一助とする」
個条書きで列挙された10カ所のうちには、「五、市役所三階の布片」と首をかしげる物や、「九、三篠の竹藪(やぶ)」と市民も探しにくい場所も選ばれている。当時の朝刊は用紙の割り当て不足から2ページ。記事は大きくても「十景」の写真紹介はない。
復興への都市計画街路や土地区画整理などの事業計画が描かれる中で、被爆の痕跡を後世に残そうと発案したのはだれなのか。被爆時に市助役だった柴田重暉氏が1955年に著した「原爆の実相」で、「(復興)局長附を勤めていたさきの小野君が、探し出して並べたもの」と言及していた。
その小野勝氏は、新聞記者などを経て被爆後に市復興局へ入った。13年前に89歳で亡くなっていたが、喜寿の年にこう記していた。
「長島(初代復興局長の長島敏)局長と私は焼け跡を視(み)て廻(まわ)る途中でいろいろ奇妙な現象を発見した。(昭和)22年の平和祭(1947年に始まった現在の平和記念式典)の後で市政記者から何かネタはないかときかれ、『原爆十景』の話をしたら…」。それが話題を呼んだ。
「十景」から浮かび上がる特徴を、広島の被爆建物に詳しい都市計画プランナーの山下和也さん(49)は、こう読み取る。
「御幸橋や三篠の竹藪と全焼全壊の縁辺部も取り上げているのは、原爆のすさまじさを伝えたいとの意識の表れ。街全体が廃虚だったので、破壊の特異性と細部に着目したのだと思う」
顧みれば「十景」は、50年代に入りその名が定着する「原爆ドーム」(旧県産業奨励館)を盛り込んでいない。そこに、「図説戦後広島市史」を編さんした市職員OBの松林俊一さん(63)は、当時の生々しい市民感情をみる。
「惨事を思い出させるドームは取り壊した方がいいとの声があった。市民を傷つけるものは選ばれていない」として、「復興という都市建設と歴史保存を一緒に見据えた発想はすごい」と今日の再開発事業に必要な視点を重ねた。
「十景」は翌1948年に「原爆名所」と呼び名を変え、ドームや、現在は原爆資料館で展示されている旧住友銀行広島支店の入り口に熱線で焼き付けられた「人影の石」などが加わる一方、市役所関係は外され、13カ所となる。
「原爆名所」の洗い直しと保存には、英連邦軍として広島に進駐し市復興顧問を務めたオーストラリア人の存在があった。
「原爆記念物の保存運動 ジヤビー少佐が提唱」(1948年7月8日付中国新聞)と、少佐は観光事業の強化にもなる保存を市に求めた。復興の礎となった「平和記念都市建設法」が公布された1949年の市勢要覧は、広島観光について「爆心地、産業奨励館」などを「原爆記念保存物」として初めて位置づけている。
建築技師だった少佐は市の戦災復興計画も示した。その内容を研究した広島国際大の石丸紀興教授によると、復興顧問は1947年9月から1949年5月まで務めた。「ジヤビーは西欧的な見方から保存はアピール性があるものをと考えたはず。ドームを軸に平和記念公園を設計する丹下健三とも面識があった」という。
1996年に世界遺産となった原爆ドームをはじめ被爆建物の保存には、「十景」にさかのぼる先人たちの発想が息づく。復興を進める中でほとんどが消えたが、中国新聞社の資料保管庫で選定時に撮られた写真の一部が眠っていた。別会社で発刊していた「夕刊ひろしま新聞」のスタンプが写真の裏に押してあった。それで今回、60年ぶりの全容紹介が可能となった。
◇今回の掲載写真は、撮影者の遺族から使用の同意を得ているオリジナルプリントから撮影日や場所を取材で確かめ、紹介する。「夕刊ひろしま新聞」は1946年6月に創刊され、1950年4月に本紙夕刊として再スタート。写真説明の白抜き部分は1947年8月11日付中国新聞記事から。
(2007年4月30日朝刊掲載)
ドームは選ばず 1947年選定
写真は、被爆から2年後の1947年の広島市中心街、後に平和記念公園となる一帯である。この年、今に続く平和記念式典の始まりである第1回平和祭が原爆ドーム対岸の中島地区で行われ、「原爆十景」と名付けた原爆記念物が選ばれた。復興の息吹とともに被爆の実態を残す営みが起きた。
「原爆十景」は、「被害の特殊性を保存し、観光客誘致の一助とする」とうたった。ところが、今は世界遺産でもある原爆ドームは入っていない。なぜなのか。本日付の「ヒロシマの記録」は、被爆建造物保存と継承の出発点であり、消えた「十景」を掘り起こし、知られざる史実を追う。
-甦る「原爆十景」
破壊の特異性に着目 復興の中で被爆保存
被爆の実態を残そうとの営みは廃虚からの復興の中で起こった。それを表すのが1947年に広島市が選定した「原爆十景」。今日から見れば、原爆ドームが選ばれず「奇妙」な遺物も入っている。だが、原爆の悲惨さを身をもって体験した市民の思いが投影されていた。また、市の復興顧問だったオーストラリア人が保存を促していた。今は消えた「原爆十景」を甦(よみがえ)らせ、忘れられた史実を解き明かす。
「十景」を、1947年8月11日付の中国新聞は「語り傅(つた)う〝原爆十景〟」との3段見出し記事で報じている。「広島市では原子爆弾による被害の特殊性、興味ある営造物を保存してその威力を後世に残し、あわせて観光客誘致の一助とする」
個条書きで列挙された10カ所のうちには、「五、市役所三階の布片」と首をかしげる物や、「九、三篠の竹藪(やぶ)」と市民も探しにくい場所も選ばれている。当時の朝刊は用紙の割り当て不足から2ページ。記事は大きくても「十景」の写真紹介はない。
復興への都市計画街路や土地区画整理などの事業計画が描かれる中で、被爆の痕跡を後世に残そうと発案したのはだれなのか。被爆時に市助役だった柴田重暉氏が1955年に著した「原爆の実相」で、「(復興)局長附を勤めていたさきの小野君が、探し出して並べたもの」と言及していた。
その小野勝氏は、新聞記者などを経て被爆後に市復興局へ入った。13年前に89歳で亡くなっていたが、喜寿の年にこう記していた。
「長島(初代復興局長の長島敏)局長と私は焼け跡を視(み)て廻(まわ)る途中でいろいろ奇妙な現象を発見した。(昭和)22年の平和祭(1947年に始まった現在の平和記念式典)の後で市政記者から何かネタはないかときかれ、『原爆十景』の話をしたら…」。それが話題を呼んだ。
「十景」から浮かび上がる特徴を、広島の被爆建物に詳しい都市計画プランナーの山下和也さん(49)は、こう読み取る。
「御幸橋や三篠の竹藪と全焼全壊の縁辺部も取り上げているのは、原爆のすさまじさを伝えたいとの意識の表れ。街全体が廃虚だったので、破壊の特異性と細部に着目したのだと思う」
顧みれば「十景」は、50年代に入りその名が定着する「原爆ドーム」(旧県産業奨励館)を盛り込んでいない。そこに、「図説戦後広島市史」を編さんした市職員OBの松林俊一さん(63)は、当時の生々しい市民感情をみる。
「惨事を思い出させるドームは取り壊した方がいいとの声があった。市民を傷つけるものは選ばれていない」として、「復興という都市建設と歴史保存を一緒に見据えた発想はすごい」と今日の再開発事業に必要な視点を重ねた。
「十景」は翌1948年に「原爆名所」と呼び名を変え、ドームや、現在は原爆資料館で展示されている旧住友銀行広島支店の入り口に熱線で焼き付けられた「人影の石」などが加わる一方、市役所関係は外され、13カ所となる。
「原爆名所」の洗い直しと保存には、英連邦軍として広島に進駐し市復興顧問を務めたオーストラリア人の存在があった。
「原爆記念物の保存運動 ジヤビー少佐が提唱」(1948年7月8日付中国新聞)と、少佐は観光事業の強化にもなる保存を市に求めた。復興の礎となった「平和記念都市建設法」が公布された1949年の市勢要覧は、広島観光について「爆心地、産業奨励館」などを「原爆記念保存物」として初めて位置づけている。
建築技師だった少佐は市の戦災復興計画も示した。その内容を研究した広島国際大の石丸紀興教授によると、復興顧問は1947年9月から1949年5月まで務めた。「ジヤビーは西欧的な見方から保存はアピール性があるものをと考えたはず。ドームを軸に平和記念公園を設計する丹下健三とも面識があった」という。
1996年に世界遺産となった原爆ドームをはじめ被爆建物の保存には、「十景」にさかのぼる先人たちの発想が息づく。復興を進める中でほとんどが消えたが、中国新聞社の資料保管庫で選定時に撮られた写真の一部が眠っていた。別会社で発刊していた「夕刊ひろしま新聞」のスタンプが写真の裏に押してあった。それで今回、60年ぶりの全容紹介が可能となった。
◇今回の掲載写真は、撮影者の遺族から使用の同意を得ているオリジナルプリントから撮影日や場所を取材で確かめ、紹介する。「夕刊ひろしま新聞」は1946年6月に創刊され、1950年4月に本紙夕刊として再スタート。写真説明の白抜き部分は1947年8月11日付中国新聞記事から。
(2007年4月30日朝刊掲載)