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原爆記録写真

ヒロシマの記録 原爆被災写真

■編集委員 西本雅実

惨禍伝える「証言者」

 ヒロシマの惨禍は過去の出来事ではない。私たちは1945年8月6日に初めて使われた原爆の威力をはるかに上回る3万発もの核兵器に囲まれている。民族や国籍の違いにかかわらず核時代の中で生きている。ところが普段は思いめぐらすことは少ない。1発の原子爆弾で人間は、都市はどうなったのか―。記憶を呼び覚まし、警鐘を告げるのが原爆記録写真である。写真に焼き付けられたヒロシマを3回にわたり特集する。初回は、「広島原爆被災撮影者の会」が集め残していた原本資料を基に未曾有の世界に迫る。

 深田敏夫さん=西区横川町=は当時16歳だった。春に旧制崇徳中を四年で卒業となった後も陸軍兵器補給廠(しょう)へ学徒動員が続いていた。現在は広島大医・歯学部キャンパスとなる南区霞にあった。

 「朝礼が終わり建物に入った途端にピカッと光り、吹き飛ばされた」。曲がった鉄扉から差し込む明かりを頼りに外へ出ると北側に煙がもくもく上がっていた。思わず戻り2階の窓から愛用の小西六「ベビーパール」のシャッターを切った。ポケットにひそかに入れていた。

 写真を自由に撮れなかった戦時下。まして兵器補給廠。「見つかれば銃殺もの」の覚悟で撮った4枚の原子雲は、爆心地から2.7キロと最も至近距離からの撮影となり、ネガが現存している。焼くと「だいだい色だった」不気味な雲が浮かび上がる。

 山田精三さん=広島県府中町=は17歳の夏にやはりベビーパールを向けた瞬間をこう語る。

 「黒のような朱のような見たことのない雲がわき、次に再びカメラを構えてもファインダーに入らなかった」。動員先の工場が休みの友人らと町内の水分峡に上ろうとしていた。爆心地約7キロからの撮影となった。

 31歳だった尾木(おき)正己さんは、今も住む広島県海田町から呉海軍工廠に通っていた。室内で勤務中に鉛筆を持つ手が浮き上がるほどのごう音がした。約20キロ西の上空に上がる巨大な雲を見て、職場にあったドイツ製のライカを取り出した。

 1945年8月6日の月曜日朝、原爆は「細工町二九番地の二」(現・中区大手町1丁目)の島病院上空580メートルでさく裂した。米軍の記録によれば高度約9300メートルから「午前八時十五分三十秒」に投下した「四十三秒後」。ウラン235のさく裂に伴う爆風と熱線、放射線は遮るもののない広島デルタをなめつくし、壊滅させた。

 原子雲の下には、非戦闘員の市民32万7457人が暮らしていた(故・湯崎稔広島大教授の調査)。また、陸海の軍関係者は約4万3000人といわれる。死者は被爆の年末までに「十四万±一万人」と広島市は1976年に推計した。犠牲者の正確な数が不明なのは、国が究明を怠ってきたからだ。

 未解明が続く被爆の実態について、原爆写真は犠牲者に代わって今に未来にも語り伝える「証言者」といえる。

 「被災撮影者の会」は1978年、原爆写真の収集と保存に声を上げた。その集めた原本資料が、中国新聞社に残っていた。紙袋を開けると、撮影者18人のネガやオリジナルプリントから再生した260枚と、撮影者を不明とした陸軍船舶司令部の7枚の計267枚が出てきた。健在なのは4人。

 尾糠(おぬか)政美さん(83)は島根県川本町の自宅で、残っていた自ら撮影の8枚に目を凝らして記憶をたどった。陸軍船舶司令部写真班員だった。

 「負傷者が運ばれた似島で死にかけた子どもや女性も撮りました。命令でしたからねえ…」

 中区平野町に住み行方知れずとなった母マキノさん=当時(62)=を捜す中、南区の段原や大河地区の救護所でも撮ったという。今は1枚も手元にはない。

 取材を進めると、救護所を撮った記録が広島市内に現存していた。原爆写真の知られざる軌跡が浮かんできた。

(2005年8月2日朝刊掲載)

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