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ヒロシマの記録 佐々木雄一郎が撮った原爆ドーム
■編集委員 西本雅実
原爆の惨禍とそこからの再生を見つめた佐々木雄一郎さん(1917~80年)の写真が電子化して保存、発信される。長男の塩浦雄悟さん(58)=廿日市市=が、中国新聞社の求めに応じて原爆資料館とのデータベース化に同意した。ヒロシマを代表した写真家は、原爆ドームにいち早く着目して「核時代」を切り撮った。レンズによる証言者の半生と「ドーム写真」をたどる。
佐々木さんの素顔を、雄悟さんは「頑固。また、そうでなければ、できなかった仕事だと思う」と語った。晩年まで毎日のように自転車で回っては被写体にカメラを向けた執念ともいえる撮影ぶりは、廃虚への帰郷から始まった。
現在の広島市中区西十日市町に生まれ、東京のオリエンタル写真学校を経て、内閣情報部が発行した「写真週報」のカメラマンとなった。敗戦により退職金代わりのフィルムを携えて1945年8月18日に帰ると、母や兄家族、姉、妹ら肉親13人が亡くなっていた。生前にこう語っている。
「最初は肉親の死んだ場所だけを写すつもりだったのに(略)もう一度写したいという場所が見つかる。そんなことからとうとう深入りしてしまいました」(中国新聞68年8月3日付)。家族の墓標図はデルタ一面に広がっていた。
本社が焼失した中国新聞社もフィルムが手に入らなかった時代。佐々木さんは、外国人カメラマンの案内をして百フィート巻きのフィルムを確保するなどした。朝早くからカメラを手に歩いていると警察官に尋問され、市民からにらまれたりした。それでも復興のつち音とともに現れ、消えていく光景を撮った。元宇品町(南区)に住み着くと観光写真撮影で生計を立てながら、ヒロシマを記録し続けた。
親交を深めた元中国新聞社会部記者の松浦亮さん(73)は、佐々木さんの「写そうにも人がいないんだよ」との言葉が忘れられないという。レンズの向こうに死んだ肉親らの姿を見ていた。
「被爆の痛みを知り、声高に叫ぶヒロシマより物言わぬ墓標を一徹に撮る。原爆ドームにこだわったのもそこから」。松浦記者が紹介した東京の記録映画監督の奔走もあり、ドームの保存工事が行われた2年後の69年に銀座・松屋で写真展「広島の日記」を開き、反響を呼ぶ。そのパンフレットに廃虚からの撮影をこう表していた。
「シャッターをきっているうちに、気がついたら約10万枚。今はこのネガがわたしのすべてだ」。職業病である眼病を乗り越え、組織に属さず市井のカメラマンを貫き記録し続けた誇りが伝わる。
翌年には「写真記録 ヒロシマ25年」(朝日新聞社)を出版し、その後も日英両語版の「広島の日記」を自ら刊行。原爆写真の収集と保存を呼び掛け、78年に「広島原爆被災撮影者の会」の結成をみた。20人から278枚が集まったが、佐々木さんは会を退き、80年に肝不全のため63歳で死去した。
「撮影者の会」が提供した複写プリントが資料館の展示などで注目される一方、佐々木さんの写真は「知る人ぞ知る」存在となった。妻喜代美さん(85)が大切に保存する写真を求めに応じて貸し出すと、誤った説明が付いたり返却されないこともあった。
今回、雄悟さんは入院中の母と相談して、電子保存化のため一次分の507枚の写真を、撮影ネガを年代順に焼き付けていた台帳20冊とともに寄せた。遺志を生かそうとの思いから踏み切った。
佐々木さんは生前こうも語っている。「私は、これらの写真が生き証人となってほしいと願って写し続けた」
原爆ドームの名は、「いつ頃(ごろ)からともなく、市民の間の誰いうともなく自然に言い出された」。広島市が90年に表した説明をマスコミもよく引用する。本当にそうなのか。検証すると、日米が互いに「原爆ドーム」と呼んでいった軌跡が分かった。
原爆は、れんが造り3階建ての「広島県産業奨励館」の東南約160メートル、最新の研究では上空約600メートルでさく裂した。
「商工奨励館の天井は抜け落ちてゐる」と、写真付きで初めて報じたのは毎日新聞(大阪版)45年9月13日付。被爆からの再建にあった中国新聞は46年6月8日付の「戦災地写生大会」の記事で初めて写真を添えた。別会社発行の夕刊ひろしまは同7月6日付で、中島本町に供養塔が建ったことを伝え、対岸の「産業奨励館廃虚」と掲載した。爆心地一帯の公園化構想が起きていた。
では、「ドーム」と呼んだのは―。国立国会図書館で所蔵の英字紙などを当たると、米軍機関紙スターズ・パシフィック・アンド・ストライプス(日本版)が、46年8月6日付で「原爆はドーム状ビルディングの上空で爆発した」と廃虚の光景を掲載していた。翌年8月5日付は一面で「当局は記念保存を決めた」と報じた。公園化を保存と受け取ったのか。だが、この時点では決まっていない。
また、日本占領に当たった米第八軍と英連邦軍が作成した冊子「広島観光 原爆都市」が、「“ドーム”ビルディング 周囲2キロは全焼」とイラスト付きで載せていたのが分かった。46年に広島を訪れた英国人少佐の遺族が、資料館に一昨年寄せていた。
一方、ジョン・ハーシーの名著「ヒロシマ」(ニューヨーカー46年8月31日号掲載)や、市などによる第1回平和祭を特集したライフ47年9月15日号は、「産業奨励館」の訳語である。
中国新聞で「ドーム」の言葉が使われるのは47年8月2日付。平和祭を前に「やぶれ去つたドームが天に平和を訴えるかのように屹立(きつりつ)し」と記した。
もっとも旧奨励館は、市復興局が直後に選定した「原爆十景」には入っていない。復興顧問に就いたオーストラリア人少佐が提唱した翌48年の「原爆名所」で盛り込まれる。復興のつち音が高まり、爆心地一帯の公園化が計画される中、「あの日」をとどめる西洋式建築の円屋根が被爆地のシンボルとなっていく。
平和記念公園の設計当選作を報じた49年8月7日付の中国新聞は、「アトムの残骸(ざんがい)旧産業奨励館のドームを見通し得る」と、原爆の惨禍を重ね始めた。
さらに「原爆ドーム」の言葉は、50年6月23日付の社説「観光への忠言」で登場したが、2日後に朝鮮戦争が起きるとたちまち消えている。原爆使用を公言した米軍を意識したのか。
ただ、このころには親を失った子や、やけどの傷が残る女性らに「原爆」の2文字を付けて呼んでいた。顧みれば、被害をみるとはいえ「原爆」を付けるのは心ない呼び方でもある。
今回の調査に協力した資料館情報資料室は、50年9月発行の俳句誌「夜」で「鉄鈷雲(かなとこぐも)原爆ドームに蟻狂ふ」の句を見つけた。作者は入市被爆した庄原市の高校教諭藤井美典さん(2003年死去)。占領軍の検閲リストに入っていなかったが、「原爆ドーム」と呼んで被爆の実態を託した最も早い表現とみられる。
対日講和条約へと至る51年、中国新聞8月6日付や読売新聞(東京版夕刊)8月16日付が、それぞれの空撮写真を「原爆ドーム」と記述。翌年8月に出た「原爆第1号ヒロシマの写真記録」(朝日出版)は「“原爆ドーム”の惨状」と見開きで扱う。11月の「改造増刊号」には物理学者武谷三男さん(2000年死去)が「原爆ドーム」と表したルポが載る。
結論づければ、占領が明けた52年に「原爆ドーム」の言葉は広く使われ出した。市も53年版の市勢要覧に収めた観光地図でその呼称を採った(本文は旧産業奨励館)。
ニューヨーク・タイムズは、55年7月31日付の「広島十年後」の特集をこう書き出している。「産業奨励館は壊滅のシンボルとして保存されており、焼けて曲がった鉄骨のむき出しの円屋根から“アトミック・ドーム”と名付けられた」。ここで日米とも定着したといえる。
核兵器使用の惨禍と警鐘を刻み、96年に世界遺産となった登録名は「ヒロシマ・ピース・メモリアル(ゲンバク・ドーム)」である。
(2007年6月5日朝刊掲載)
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物言わぬ墓標 惨禍告発
原爆の惨禍とそこからの再生を見つめた佐々木雄一郎さん(1917~80年)の写真が電子化して保存、発信される。長男の塩浦雄悟さん(58)=廿日市市=が、中国新聞社の求めに応じて原爆資料館とのデータベース化に同意した。ヒロシマを代表した写真家は、原爆ドームにいち早く着目して「核時代」を切り撮った。レンズによる証言者の半生と「ドーム写真」をたどる。
復興・変ぼう 執念で写す
佐々木さんの素顔を、雄悟さんは「頑固。また、そうでなければ、できなかった仕事だと思う」と語った。晩年まで毎日のように自転車で回っては被写体にカメラを向けた執念ともいえる撮影ぶりは、廃虚への帰郷から始まった。
現在の広島市中区西十日市町に生まれ、東京のオリエンタル写真学校を経て、内閣情報部が発行した「写真週報」のカメラマンとなった。敗戦により退職金代わりのフィルムを携えて1945年8月18日に帰ると、母や兄家族、姉、妹ら肉親13人が亡くなっていた。生前にこう語っている。
「最初は肉親の死んだ場所だけを写すつもりだったのに(略)もう一度写したいという場所が見つかる。そんなことからとうとう深入りしてしまいました」(中国新聞68年8月3日付)。家族の墓標図はデルタ一面に広がっていた。
本社が焼失した中国新聞社もフィルムが手に入らなかった時代。佐々木さんは、外国人カメラマンの案内をして百フィート巻きのフィルムを確保するなどした。朝早くからカメラを手に歩いていると警察官に尋問され、市民からにらまれたりした。それでも復興のつち音とともに現れ、消えていく光景を撮った。元宇品町(南区)に住み着くと観光写真撮影で生計を立てながら、ヒロシマを記録し続けた。
親交を深めた元中国新聞社会部記者の松浦亮さん(73)は、佐々木さんの「写そうにも人がいないんだよ」との言葉が忘れられないという。レンズの向こうに死んだ肉親らの姿を見ていた。
「被爆の痛みを知り、声高に叫ぶヒロシマより物言わぬ墓標を一徹に撮る。原爆ドームにこだわったのもそこから」。松浦記者が紹介した東京の記録映画監督の奔走もあり、ドームの保存工事が行われた2年後の69年に銀座・松屋で写真展「広島の日記」を開き、反響を呼ぶ。そのパンフレットに廃虚からの撮影をこう表していた。
「シャッターをきっているうちに、気がついたら約10万枚。今はこのネガがわたしのすべてだ」。職業病である眼病を乗り越え、組織に属さず市井のカメラマンを貫き記録し続けた誇りが伝わる。
翌年には「写真記録 ヒロシマ25年」(朝日新聞社)を出版し、その後も日英両語版の「広島の日記」を自ら刊行。原爆写真の収集と保存を呼び掛け、78年に「広島原爆被災撮影者の会」の結成をみた。20人から278枚が集まったが、佐々木さんは会を退き、80年に肝不全のため63歳で死去した。
「撮影者の会」が提供した複写プリントが資料館の展示などで注目される一方、佐々木さんの写真は「知る人ぞ知る」存在となった。妻喜代美さん(85)が大切に保存する写真を求めに応じて貸し出すと、誤った説明が付いたり返却されないこともあった。
今回、雄悟さんは入院中の母と相談して、電子保存化のため一次分の507枚の写真を、撮影ネガを年代順に焼き付けていた台帳20冊とともに寄せた。遺志を生かそうとの思いから踏み切った。
佐々木さんは生前こうも語っている。「私は、これらの写真が生き証人となってほしいと願って写し続けた」
「ドーム状ビルディングの上空で…」 米軍機関紙が46年8月記述
占領明け52年 呼称固まる
原爆ドームの名は、「いつ頃(ごろ)からともなく、市民の間の誰いうともなく自然に言い出された」。広島市が90年に表した説明をマスコミもよく引用する。本当にそうなのか。検証すると、日米が互いに「原爆ドーム」と呼んでいった軌跡が分かった。
原爆は、れんが造り3階建ての「広島県産業奨励館」の東南約160メートル、最新の研究では上空約600メートルでさく裂した。
「商工奨励館の天井は抜け落ちてゐる」と、写真付きで初めて報じたのは毎日新聞(大阪版)45年9月13日付。被爆からの再建にあった中国新聞は46年6月8日付の「戦災地写生大会」の記事で初めて写真を添えた。別会社発行の夕刊ひろしまは同7月6日付で、中島本町に供養塔が建ったことを伝え、対岸の「産業奨励館廃虚」と掲載した。爆心地一帯の公園化構想が起きていた。
では、「ドーム」と呼んだのは―。国立国会図書館で所蔵の英字紙などを当たると、米軍機関紙スターズ・パシフィック・アンド・ストライプス(日本版)が、46年8月6日付で「原爆はドーム状ビルディングの上空で爆発した」と廃虚の光景を掲載していた。翌年8月5日付は一面で「当局は記念保存を決めた」と報じた。公園化を保存と受け取ったのか。だが、この時点では決まっていない。
また、日本占領に当たった米第八軍と英連邦軍が作成した冊子「広島観光 原爆都市」が、「“ドーム”ビルディング 周囲2キロは全焼」とイラスト付きで載せていたのが分かった。46年に広島を訪れた英国人少佐の遺族が、資料館に一昨年寄せていた。
一方、ジョン・ハーシーの名著「ヒロシマ」(ニューヨーカー46年8月31日号掲載)や、市などによる第1回平和祭を特集したライフ47年9月15日号は、「産業奨励館」の訳語である。
中国新聞で「ドーム」の言葉が使われるのは47年8月2日付。平和祭を前に「やぶれ去つたドームが天に平和を訴えるかのように屹立(きつりつ)し」と記した。
もっとも旧奨励館は、市復興局が直後に選定した「原爆十景」には入っていない。復興顧問に就いたオーストラリア人少佐が提唱した翌48年の「原爆名所」で盛り込まれる。復興のつち音が高まり、爆心地一帯の公園化が計画される中、「あの日」をとどめる西洋式建築の円屋根が被爆地のシンボルとなっていく。
平和記念公園の設計当選作を報じた49年8月7日付の中国新聞は、「アトムの残骸(ざんがい)旧産業奨励館のドームを見通し得る」と、原爆の惨禍を重ね始めた。
さらに「原爆ドーム」の言葉は、50年6月23日付の社説「観光への忠言」で登場したが、2日後に朝鮮戦争が起きるとたちまち消えている。原爆使用を公言した米軍を意識したのか。
ただ、このころには親を失った子や、やけどの傷が残る女性らに「原爆」の2文字を付けて呼んでいた。顧みれば、被害をみるとはいえ「原爆」を付けるのは心ない呼び方でもある。
今回の調査に協力した資料館情報資料室は、50年9月発行の俳句誌「夜」で「鉄鈷雲(かなとこぐも)原爆ドームに蟻狂ふ」の句を見つけた。作者は入市被爆した庄原市の高校教諭藤井美典さん(2003年死去)。占領軍の検閲リストに入っていなかったが、「原爆ドーム」と呼んで被爆の実態を託した最も早い表現とみられる。
対日講和条約へと至る51年、中国新聞8月6日付や読売新聞(東京版夕刊)8月16日付が、それぞれの空撮写真を「原爆ドーム」と記述。翌年8月に出た「原爆第1号ヒロシマの写真記録」(朝日出版)は「“原爆ドーム”の惨状」と見開きで扱う。11月の「改造増刊号」には物理学者武谷三男さん(2000年死去)が「原爆ドーム」と表したルポが載る。
結論づければ、占領が明けた52年に「原爆ドーム」の言葉は広く使われ出した。市も53年版の市勢要覧に収めた観光地図でその呼称を採った(本文は旧産業奨励館)。
ニューヨーク・タイムズは、55年7月31日付の「広島十年後」の特集をこう書き出している。「産業奨励館は壊滅のシンボルとして保存されており、焼けて曲がった鉄骨のむき出しの円屋根から“アトミック・ドーム”と名付けられた」。ここで日米とも定着したといえる。
核兵器使用の惨禍と警鐘を刻み、96年に世界遺産となった登録名は「ヒロシマ・ピース・メモリアル(ゲンバク・ドーム)」である。
(2007年6月5日朝刊掲載)
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