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世界のヒバクシャ

7. さびれる村

第4章: インド・マレーシア・韓国
第2部: トリウム汚染―マレーシアの日系企業

子や孫たちは移住

 「ブキメラーに住んで30年だが、家族や村のことで、こんなに気をもんだことはない」。エイシアン・レアアース(ARE)社を告訴している8人の原告の1人、無職の張金財(チョン・キム・チョイ)さん(73)は、額にしわを寄せて言った。テレビの上には孫や子供の写真が飾ってある。1986年まで一家15人が同じ敷地に暮らしていた。だが、今は妻(68)と2人きりだ。子や孫は放射線被曝の危険を避けて、みんなイポーへ移ってしまった。時たま遊びに来ても泊まることはない。

 5人の子供のうち3人は結婚し、孫が5人いる。AREの工場から200メートルの場所に15人が、小さいながらも3軒の家を建てて住んでいた。熱帯の強い日差しを遮るように、巨樹の枝に取り付けたブランコは、今は遊び相手もなく、さびついてしまった。

 ブキメラーは第二次世界大戦後、日本に代わって再び支配した英国政府が、独立を求めるマラヤ共産軍への支援を断ち切るため、1951年に付近の中国系住民を強制的に移住させて開いた村である。このため通りは基盤目に走り、家も整然と並んでいる。

 しかし、今は空き家が目立つ。「みんな村を離れてよそへ行ってしまったよ。仕事の関係もあるが、ほとんどは放射線被曝を恐れてのこと」と張さんは力なく言った。

 1985年に1万1千人だった人口が、4年後の今、7千人になり、戸数も1,400戸から1,200戸に減った。村に残っている人も、張さん夫妻のように老人だけの世帯が増えている。

 「放射能汚染について知らん時は、孫を連れてトリウム廃棄物のそばを通って散歩に行ったもんだ。孫の1人がいつも熱を出して病気がちだったし、嫁の1人も体調が思わしくなかった。あのトリウムのせいだと考えると、安全な所に住めと言うしかなかったよ。それで、くしの歯が抜けるようにみんな去って行った」

空き家率4割にも

 こう語る張さんと、AREの工場裏手にある新しい住宅地を訪ねた。そこは工場から800メートル余りのタマンバドリシヤ村で、10年前ごろから、イポー市で働く公務員や銀行員が、マイホームを建てて移り住んできた。ブキメラーに比べ家は新しく、アパート形式の棟も続く。

 だが、この新興住宅地の方が一段と空き家率は高い。「ブキメラーの住民より高収入の人が多いから、よそへ移るのも早いんだ」。張さんはこう説明した。500軒のうち約200軒が空き家だ。大部分は購入価格より安く売りに出ているが、買い手がつかないという。

 放射線被害を恐れて人は出て行く。特に若い人たちが出ていくだけに、工場周辺の村はさびれる一方である。中国系住民にとって3世代、4世代同居はごく当たりまえのことである。家族のきずなを大切にするだけに、お年寄りを残して家族がばらばらになる心の痛手は大きい。

 1987年9月、イポー高裁で開かれた本訴訟の第1回証人尋問で、張さんは訴えた。「工場の操業許可を与えたのが保健省であれ通産省であれ、そのことに私は関心がない。ブキメラー村の住民の健康こそが私の関心事。放射能の毒を出すAREは早く閉鎖してほしい」

 住民の間に出始めた白血病や障害児のことを考えると眠れない日が多い、という張さん。そんな彼が足の悪い妻に語りかけるともなく言った。「三菱化成は、AREがマレーシア人のために役立っているというが、わしらには苦痛しか与えてくれんなあ」