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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 原爆資料館の礎 1万1890点 初代館長が収集調査 きょう寄託

 広島市の原爆資料館初代館長を務めた長岡省吾氏(1901~73年)が半生をかけて集め調べるなどしたヒロシマの礎をなす資料が、大竹市玖波の自宅で見つかった。約1万1890点が確認された。東区に住む次男錬二さん(73)は「資料館で役立ててほしい」と20日に寄託する。夏に開館60年を迎える資料館は「館の歩みと在り方も伝える貴重な資料だ」として検証を進める。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 地質研究者だった長岡氏は、45年8月6日の原爆投下の翌日から焦土を歩き、惨禍を刻む岩石などを集めて回った。それらを基に55年8月、資料館は現中区の平和記念公園に開館し、62年まで館長を担った。

 自宅には、熱線の跡が残る瓦や竹などの実物資料が約610点▽市民や街の無残な光景を収めた記録写真を入手し、日英両語で54年刊行した「HIROSHIMA」でも使ったプリントとフィルム約8370点▽爆発地点の測定や、60年代前半に被爆ビルの鉄骨などからコバルト60を検出して各地点の放射線量を追った調査資料など約1230点―があった。

 資料には、市内各町と学校や郊外町村の「原爆被災生存・死没者調査名簿」も含まれる。米国が設けたABCC(原爆傷害調査委員会)の依頼で48年ごろから各組織を訪ねて写し取り、約5万6千人分をまとめたといわれている。

 さらに資料館の前身「原爆記念館」の概要も分かった。中区基町の旧中央公民館隣に設けられたが市に記録がなく、明記されていなかった。工費60万円、木造平屋132平方メートルで50年8月6日に開館していた。54年に日本赤十字社本社で開いた「東京原爆展」の内容や、58年の「広島復興大博覧会」で館が「原子力科学館」に充てられた際の展示シナリオも残されていた。

 膨大な資料は、大竹市で無人となった自宅を錬二さんと長岡さんの孫の田川主彦(かずひこ)さん(70)=広島市安佐北区=が昨年から整理し、屋根裏などに納められていたのを見つけた。

 錬二さんらは「原爆の資料収集と研究を貫いた男の足跡も知っていただければありがたい」と、資料を全て寄託する考えだ。

 12代となる志賀賢治館長は「長岡さんの活動は資料館の原点といえる。遺品や記録写真など実物資料を軸に展示する館の全面更新に向け、長岡資料を生かしたい」と話している。

継承の先人に光

 被爆史を研究する宇吹暁・元広島女学院大教授の話 長岡さんの志と努力が原爆資料館を生んだ。被爆体験の継承がイベント的になる今、後世や海外に伝えようといち早く取り組みながら忘れられている人たちを再評価する必要がある。それはヒロシマの豊かな歴史化につながるだろう。

(2015年4月20日朝刊掲載)