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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <6> 「あの日から今もなお」 1956年刊 廃虚に「力強い産声」

 広島原爆の戯曲も残した井上ひさしさんが「実情を冷静かつ正確に記録していて、いまは第一級の資料になっている」(「ふふふ」収録)と評した手記がある。

 「あの日から今もなお」といい、著者は副島(そえじま)まち(筆名まち子)さん。1945年8月6日、広島市南千田町(現中区南千田西町)の自宅で被爆した。当時32歳。3男1女の母は身重でもあった。広島工専(現広島大)教授の夫吉雄さん=当時(38)=は召集されていた。

 「崩れ落ちた2階の床が屋根代わりの部屋で寝起きし、母はそこで弟を産んだんです」。長女の千葉孝子さん(73)=兵庫県芦屋市=と四男の副島圀義(くによし)さん(69)=同=は、母の手記をたどるかのように被爆した場所へ足を運んだ。爆心地から約2・5キロ。修道中・高の旧正門北筋に接する。

 まちさんは自ら産湯を用意し、へその緒も切った出産をこう記している。

 「死ぬことも生きることも超越して、ただ、この大役を無事に果(た)させ給(たま)え、と祈りつづけました/昭和二十年八月十九日午前一時二十分/死の街のような広島の廃虚に、力強い産声が上がりました」

 手記は、陣痛に襲われながら子どもたちと京橋川方面へ逃げた様子や、世話になっていた商店主一家の悲劇、半壊の自宅から掘り出した家具や皿が盗みに遭ったこともつづっている。

原水禁活動に参加

 副島さん親子は、復員した吉雄さんの現神戸大転出で48年から芦屋に住む。体調と2年後に始まった朝鮮戦争への不安からまちさんは「遺言のつもりで」手記をつづり、主婦たちでつくる「芦屋あすなろ友の会」に参加した。

 米軍の水爆実験で日本漁船員も「死の灰」を浴びた54年のビキニ事件を機に起こった原水爆禁止の署名運動に会はいち早く取り組み、手記が回覧される。

 そして翌55年、まちさんは、広島市で開かれた初の原水爆禁止世界大会へ友の会代表で派遣される。

 「十年の年月は、すべての苦悩、傷痕をも流し去ったのかと考えていた私の前に、突然、鮮明に映し出されたもの!/それは、被爆者の苦しみだったのです」。広島から戻ると早速、救援の「一円募金」を地元で始め、社会の片隅に追いやられていた近隣の被爆者を訪ねて歩く。

 孝子さんはこう話した。

 「広島で生かされた者としての使命感と原爆そのものへの怒りが、母を突き動かしたのだと思います」

 募金箱をなじみの食料品店にも置き、回収のため子どもたちから自転車の乗り方を教わる。50円ずつを家族全員が紙で巻き、救援やお見舞いに活用した。

 「あの日から今もなお」は東都書房(東京)から刊行した。奥付は「56年11月25日」。まちさんが会長に就いた兵庫県原爆被害者の会(現兵庫県被団協)が結成された日でもあった。

被爆者相談室開く

 さらに、まちさんは県にも働きかけて「被爆者相談室」を開設し、脳梗塞で倒れる86年まで相談員を務めた。この間、64年の広島・長崎世界平和巡礼団に参加し、82年の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の「欧州語り部の旅」でも証言した。

 2006年に93歳で亡くなった母の活動を継ぎ、元小学校教師の孝子さんは県被団協理事を務める。政党職員だった圀義さんは昨年から事務局次長を担う。

 圀義さんは「胎内被爆ですから私は全く記憶はないが、おふくろを知る、また高齢化する被爆者の相談を親身になって聞ける立場にあると思います」と穏やかに語った。原爆症認定訴訟の傍聴記をミニコミ誌で掲載もしている。

 孝子さんは「息子3人を産み孫たちにも命をつなげる責任がある」と自らをとらえる。福島第1原発事故にも言及した。「核」の被害と脅威は「今もなお」続いている、とみるからだ。

(2015年3月2日朝刊掲載)