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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <2> 「原爆体験記」 1950年刊 表現生々しく 削除も

 広島市は被爆5年後に市民から手記を募る。寄せられた全165編から18編を選んで載せた。それが1950年8月6日発行の「原爆体験記」である。

 「あの日」児童・生徒だったのが84人、大学生を含む社会人が81人。執筆者の被爆地点もさまざまだ。しかし、未掲載の手記も「ほんの五年前」の体験を生々しくつづる。応募原稿はすべて市公文書館で保管されている。原文と照らすと、体験や思いをそのまま伝えることが困難だったヒロシマの歩みも浮かび上がる。

37人で唯一の生存

 「原爆体験記」は、爆心地の約170メートルで奇跡的に助かった野村英三さんの手記から始まる。「爆心にあびる」の題名で掲載された。中区の平和記念公園にあるレストハウスの前身、燃料会館の地下室で被爆した。47歳だった。

 「あっ!人間だ!!抱え起(こ)して声をかけたり色々してみたが、がつくりしていて最早(もはや)事切れているようだ」。館内から出て、火炎が迫るなか救援を求めて脱出する。出勤していた県燃料配給統制組合の職員37人のうち唯一の生存者となった。

 掲載された手記は「三十六名の霊よ安らかに眠れ!!嗚呼(ああ)!!」と結んでいる。

 野村さんは、堅固なコンクリート造りの地下室にいたので熱線の直射を免れた。急性放射線障害に襲われたが何とか回復し翌46年春、妻子5人と広島へ戻りバラック生活を始める。

 「日々の暮らしに精いっぱいでしたが、手記の募集を知り使命感を抱いたのでしょう」と、三男英夫さん(80)=中区十日市町=は振り返る。体調が優れない父は、げたの鼻緒や茶の販売をして一家を支えていた。

 募集は50年5月に告知された。執筆者は、鮮明な体験にとどまらず、被爆時に覚え続けた激烈な感情も飾ることなく書いている。

 建物疎開作業で幾多の友が逝った元学徒は、「やり場のない憤怒に燃え立つたのは豈(あに)僕一人ではあるまい」という。妻子を失った教師は「かくまでの残虐を敢(あ)えてした米国の人道を疑い(略)この惨禍を永久に地上から葬り去ることに努力しよう」と記す。だが、そうした手記は載らなかった。

 掲載分も不都合とみられた一節が削られている。

 夫を亡くし顔を焼かれながらも2男1女のため生きる北山二葉さん=被爆時(33)=はこう訴えていた。

 「国際情勢のひつ迫した今日、願わくは、原爆の犠牲により平和のために散った尊い二十万の命が決して無駄でなかつたことが世界中に示されるように」

 連合国軍総司令部(GHQ)が設けた民間検閲局(CCD)は前年10月に廃止されていた。しかし米ソ両陣営の対立から朝鮮戦争が50年6月25日に起きる。

 平和祭(現平和記念式典)は、広島の占領行政に当たる中国民事部(呉市)から中止に追い込まれた。刊行本は、「約千五百部作成、国会をはじめ全国の県、市庁に寄贈する」(中国新聞50年8月8日付)はずが、配布は関係者らにとどまる。

 いわば消し去られ、埋もれた「原爆体験記」の存在が知られるようになったのは被爆20年後。朝日新聞社が11編を加えて65年に同名タイトルで刊行した。今は選書で版を重ねている。

全編の発信を期待

 一方、手書きの生原稿は紙の劣化が進む。読みづらい。そこで、広島大名誉教授の葉佐井博巳さん(83)は全文を電子データ化して2011年、市に託した。被爆証言者としての活動も踏まえて説く。「後々の知識や時代風潮に影響されず、原爆は許せない思いが赤裸々に刻まれている。広く読まれるべき手記だ」と。

 全165編は、原稿コピーを所蔵する国立広島原爆死没者追悼平和祈念館でも閲覧できるが、どこでも読めるようにしたい。ウェブ上での公開を期待してのデータ化でもあった。

(2015年1月19日朝刊掲載)